【藩名】
吉田藩(豊橋藩)
【説明】
寛延2年(1749年)、「松平信復(信祝の子)」が7万石で入封し藩主家が定着します。第5代藩主「松平信順」は大坂城代・京都所司代を歴任した後の天保8年(1837年)5月16日に老中になるが、8月6日には辞職しています。

最後の藩主「松平信古」は「間部詮勝」の次男として生まれ松平家へ養子として入りました。その後、大坂城代に任じられて幕末における畿内の混乱収拾に務めました。慶応4年(1868年)1月に「戊辰戦争」が勃発すると、藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争が始まりました。しかし、2月に「新政府軍」が吉田城に迫ると尾張藩の斡旋もあり、3月に「松平信古」は上洛して新政府に恭順しました。
明治2年(1869年)6月17日、「版籍奉還」にて信古は吉田藩知事に任じられます。信古は伊予の宇和島藩支藩である吉田藩と同名であることを嫌い、6月19日に「豊橋藩」と改名しました。明治4年(1871年)7月14日の「廃藩置県」で豊橋藩は廃藩となり、豊橋県、額田県を経て愛知県に編入されました。
三河吉田の松平家
吉田藩は、三河国渥美郡(現在の愛知県豊橋市)に置かれた七万石の藩で、吉田城を居城とし、藩主は譜代の大河内松平家でした。東海道の宿場・吉田宿を擁し、豊川のほとりに開けた三河東部の要地を治めた、重要な藩でした。
恭順、そして豊橋への改称
戊辰戦争において吉田藩は、隣接する御三家・尾張藩の斡旋によって新政府軍に恭順しました。また維新後、伊予国の吉田藩と同じ名であったことから、藩の名を「豊橋藩」と改めています。今日の豊橋という地名は、この改称に由来するもので、幕末維新の地名の移り変わりを今に伝えています。
【場所・アクセス・地図】
三河吉田藩をもっと深く——大坂城代が城へ逃げ帰り、藩は割れた
三河吉田藩の幕末は、藩主一人の履歴でほぼ説明がついてしまいます。松平信古(のち大河内信古)。ペリー来航の年に奏者番となり、大坂城代まで進み、鳥羽伏見のあと城へ帰り、尾張の斡旋で降伏した人です。
鯖江から来た養子
信古は文政十二年、江戸生まれ。実父は越前鯖江藩主・間部詮勝です。安政の大獄で井伊直弼のもとを動いた、あの間部詮勝の次男にあたります。
嘉永二年、前藩主・松平信璋の死去にともなって婿養子に迎えられ、信古と改名して家督を継ぎました。それまでの名は間部詮信です。
ペリー来航の年に奏者番
幕府での履歴は速いです。嘉永六年三月三十日、奏者番。ペリーが浦賀に来る三か月前です。安政六年に寺社奉行を兼帯し、文久二年六月に大坂城代。従四位下。元治元年に刑部大輔、慶応元年には溜間詰格となりました。
大坂城代は畿内の治安と朝廷対応の最前線です。文久から元治にかけての京大坂といえば、八月十八日の政変、禁門の変が続く時期にあたります。信古はその混乱の収拾にあたりました。
もともと吉田松平家(大河内松平家)は幕政の中枢を出す家柄でした。四代・松平信明は天明八年に老中となり寛政五年には老中首座として幕政を主導、五代・松平信順も天保八年に老中に就いています。
慶応四年、城下は二つに割れた
慶応三年十二月十三日、信古は将軍慶喜に合流するため軍艦で品川沖を出帆しました。ところが鳥羽伏見で敗れ、慶喜が大坂を脱出すると、信古もまた大坂を離れて吉田城へ帰ってしまいます。
そこから藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争しました。慶応四年二月、新政府軍が吉田に迫ります。尾張藩の斡旋もあって、三月に信古が上洛して降伏・恭順しました。このとき家名を松平から大河内に復しています。
羽田野敬雄と、平田国学の三河
この藩を語るうえで欠かせないのが、領内の羽田八幡宮の神職羽田野敬雄です。文政八年に本居大平、文政十年に平田篤胤の門に入った国学者で、三河から約四十名を平田塾に送り込み、遠江西部からも門人を推薦しました。
この人脈が浜松藩領の遠州報国隊——神官たちの勤皇隊——の土壌になっています。
興味深いのは、佐幕方の藩主がこの国学者を支援していたことだ。信古は羽田八幡宮文庫に『四書大全』など三十七巻を寄付し、毎年米十俵を永続料として贈っています。嘉永五年のことです。藩校時習館とは別に、領内の学問がこうして育っていました。
「吉田」から「豊橋」へ
明治二年六月十七日に版籍奉還で吉田知藩事、その二日後の六月十九日に「豊橋藩」と改称しました。理由は、宇和島藩支藩の伊予吉田藩と同名で紛らわしかったからです。
明治四年の廃藩置県で豊橋県、額田県を経て愛知県に編入。減封も移封もありません。信古は明治十七年に子爵、明治二十一年に六十歳で没しました。
なおペリー来航時の警備担当や長州征討への出兵については、確かな記録を確認できませんでした。

