菊間藩の歩み
明治元年(1868年)五月、徳川家達が駿府藩(七十万石)に移ったことにより、それまで「沼津藩主」だった「水野忠敬」の所領五万石のうち二万三千七百石が上知となりました。その代わりとして上総国市原郡菊間において二万三千七百石が与えられたことから「菊間藩」が立藩されました。忠敬は新たな藩庁の建設や藩校の創設に尽力しています。しかし、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で他の藩と同様に廃藩となりました。
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「菊間」という地名は、藩よりも千年以上古いものです
同じ慶応四年に房総へ移された藩のなかで、鶴舞藩は「鶴舞」という地名をそのときに新しく作りました。菊間藩はその逆です。
菊間は古代からの地名で、古代の菊麻国造(きくまのくにのみやつこ)に由来するとされます。『和名類聚抄』に「菊間(くくま)」の郷名が記され、現在の菊間はその遺称地と考えられています。中世の確実な記録としては、天正十一年(1583年)の里見義頼の寺領充行状に「菊間之郷」、天正十八年(1590年)五月の豊臣秀吉の禁制に「きくま」が現れます。
日本大百科全書が水野忠敬について「菊間村に陣屋を設けた」と書いているのも、陣屋ができる前から菊間村があったことを前提にしています。地域には菊間古墳群と菊間廃寺があり、市原歴史博物館の研究ノートは菊間廃寺と菊麻国造の関連を推測しています。
原野に名前を付けて始まった鶴舞藩と、千年以上前から名のある土地に入った菊間藩。同じ日に同じ理由で房総へ動かされた二つの藩が、この点だけは正反対でした。
表高五万石、実領二万三千七百石
石高の構造を押さえておきます。日本大百科全書は菊間藩について表高五万石、実領は城付領二万三千七百石としています。
これは沼津時代からの「減封」ではありません。表高五万石という数字はそのままで、駿河国内の領地が上知され、代地として与えられたのが上総国市原郡内の二万三千七百石だった、という構造です。看板は五万石のまま、実入りは半分以下になったわけです。
領地は日本大百科全書が明記するのは上総国市原郡内ですが、越後・三河・伊豆(君沢郡・賀茂郡・田方郡)にも分散していたという記述もあります(この点は出典が弱いものです)。存続は1868年から1871年までの四年間でした。
房総七藩のなかでは二位タイです
徳川宗家の駿河移封で房総へ移された七藩を表高で並べると、菊間藩の位置はこうなります。
一位が鶴舞藩(旧浜松/井上家)六万石。二位タイが菊間藩(旧沼津/水野家)五万石と松尾藩(旧掛川/太田家)五万石。以下、長尾藩(旧田中/本多家)四万石、花房藩(旧横須賀/西尾家)三万五千石、桜井藩(旧小島/松平滝脇家)一万石、小久保藩(旧相良/田沼家)一万石。
ただし実領で見ると話が変わります。菊間藩の実領は二万三千七百石ですから、表高の序列と実態は大きく離れていました。七藩はいずれも譜代大名で、移されるのが徳川宗家のためだったこともあり、抵抗は比較的少なかったとされます。
陣屋は完成しなかったようです
菊間陣屋については、はっきり書ける資料が乏しいのですが、土地を造成して土台を築いた時点で廃藩置県を迎え、建設が中断したという記述があります(出典は弱いものです)。当ページ本文が「旅籠を陣屋にして始まった」としているのは、恒久的な陣屋が最後までできなかった事情と重なります。
立地については、地域の資料が四方を水田に囲まれ、曲がった道と水田へ落ちる急斜面を持つ防御的な構えと説明しています。中心は「雲の境」と呼ばれる場所です。
なお、鶴舞藩と同じく、菊間藩に関わる建造物で国指定・県指定・国登録の文化財になっているものはありません。千葉県が挙げる市原市の指定文化財のなかに菊間陣屋・菊間藩関係のものは見当たりません。
十六歳の藩主
最後の藩主水野忠敬(ただのり)について、年齢を確認しておきます。
嘉永四年七月十日(1851年8月6日)生まれ。慶応二年(1866年)、七代忠誠の死去にともなって養子として家督を継ぎ、駿河国沼津五万石の藩主となりました。慶応四年(1868年)の時点で満十六歳です。
十六歳で城を没収され、名前だけ知っている上総国へ移されて、旅籠から藩政を始めた。そういう出発でした。菊間に入ったのは明治二年(1869年)七月二十六日、版籍奉還で藩知事となったのは同年です。明治四年七月十四日の廃藩置県で免官されました。
その後は明治十七年(1884年)に子爵。明治四十年(1907年)八月十七日、五十七歳で亡くなっています。
藩士たちはどうなったか
沼津から移ってきた藩士たちについて、数字と記録があります。ただしいずれも出典が弱いものなので、その旨を添えておきます。
移住の規模は明治六年(1873年)時点で六百四十四とされますが、これが人数なのか戸数なのか記述が分かれており、正確な規模は分かりません。
その後については、蚕業組合を組織し、能満(のうまん)地区の原野の払い下げを受けて(一人平均五反)茶園を経営し、「能満開墾社」を結成したという記録があります。士族授産です。駿河から上総へ移された藩士たちが、原野を開いて茶を植えた。同じ時期に旧幕臣が牧之原で茶を植えていたことを思えば、駿河と上総で似たことが起きていたことになります。
その後の菊間
廃藩置県で菊間県が置かれ、明治四年(1871年)十一月に木更津県へ統合されました。千葉県の説明では、この十一月の統廃合で房総にあった二十六県が印旛県・木更津県・新治県の三県になり、木更津県は上総国と安房国を管轄しました。その後、木更津県は千葉県に入ります。
藩は四年で消えましたが、地名は当然のように残りました。大字「菊間」として現存し、市原菊間郵便局、市原市役所菊間コミュニティセンターに名が残ります。市原市は「菊間歴史さんぽ」という歴史散策の催しを実施しており、市の歴史散歩資料『菊間周辺の遺跡と文化財』も出されています。
なお内房線に「菊間駅」はありません。最寄りは八幡宿駅です(同名の菊間駅は愛媛県今治市のJR予讃線にあります)。市原歴史博物館は令和四年(2022年)十一月二十日に開館しており、市内の歴史遺産マップを公開しています。
場所・アクセス・地図
菊間藩をもっと深く—旅籠を陣屋にして始まった、たった三年の藩
菊間藩は幕末に存在しません。明治元年に生まれ、明治四年に消えた藩です。それでも幕末史のなかで語る意味があるのは、この藩が「徳川家が駿河へ帰った」という一事の産物だからだ。
徳川宗家が駿河に入ると、駿河の大名は出ていく
慶応四年五月、明治政府は徳川家達に駿河・遠江などで七十万石を与えた(駿府藩)。江戸城を明け渡した徳川宗家の行き先です。
だが駿河にはすでに大名がいました。沼津藩の水野家五万石もその一つです。慶応四年七月、水野忠敬は駿河国内の領地二万三千七百石を上知され、上総国市原郡菊間への移転を命じられました。千葉県の資料では明治元年九月二十一日の転封とされます。
同じ玉突きで浜松藩は鶴舞藩へ、掛川藩は松尾藩へ、相良藩は小久保藩へ、横須賀藩は花房藩へ、田中藩は長尾藩へ、小島藩は桜井藩へ。駿河三藩・遠江四藩が房総へ運ばれました。
旅籠と寺で始まった藩政
移転は簡単ではありませんでした。城も陣屋もない土地です。まず先遣隊が送られ、八幡宿の旅籠を仮陣屋として測量と町割りを始めました。のちに仮陣屋は菊間の千光院という寺に移されています。
藩主・水野忠敬が実際に菊間に入ったのは明治二年七月二十六日。藩士の移住は明治元年から明治五年にかけて、何波にも分けて行われました。藩がまとまって引っ越すには、四年かかったです。
大浜騒動—三河の飛地で起きた事件
この藩が歴史に名を残したのは、菊間ではなく三河の飛地で起きた事件によります。
明治四年三月、菊間藩大浜出張所長・服部純が寺院の統廃合政策を打ち出しました。現在の愛知県碧南市にあたる地域です。これに真宗の寺院と門徒が猛反発しました。「大浜にヤソが出た」—キリスト教が入り込んだというデマが広がり、門徒が竹槍を手に蜂起して、鷲塚村で出張所の役人を襲いました。
真宗大谷派三河護法会の幹事だった僧・石川台嶺が主導したとされ、石川と暴徒一名が斬罪、多数が処罰されました。廃仏毀釈が地方でどう受け止められたかを示す事件として知られます。
三年で終わった
明治二年六月に版籍奉還で知藩事、明治四年七月の廃藩置県で免官。菊間県となり、同年十一月には木更津県に統合されました。
藩主は水野忠敬ただ一人。老中を出した沼津の名家が、上総の旅籠から出直して、三年で藩ごと消えました。忠敬は明治十七年に子爵となり、明治四十年に五十七歳で没しています。



