菊間藩/水野家5万石:水野忠敬 沼津藩からの移封により立藩

【藩名】
菊間藩

【説明】
明治元年(1868年)5月、徳川家達が駿府藩(70万石)に移ったことにより、それまで「沼津藩主」だった「水野忠敬」の所領5万石のうち2万3700石が上知となりました。その代わりとして上総国市原郡菊間において2万3700石が与えられたことから「菊間藩」が立藩されました。忠敬は新たな藩庁の建設や藩校の創設に尽力しています。しかし、明治4年(1871年)の「廃藩置県」で他の藩と同様に廃藩となりました。

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【場所・アクセス・地図】

目次

菊間藩をもっと深く——旅籠を陣屋にして始まった、たった三年の藩

菊間藩は幕末に存在しません。明治元年に生まれ、明治四年に消えた藩です。それでも幕末史のなかで語る意味があるのは、この藩が「徳川家が駿河へ帰った」という一事の産物だからだ。

徳川宗家が駿河に入ると、駿河の大名は出ていく

慶応四年五月、明治政府は徳川家達に駿河・遠江などで七十万石を与えた(駿府藩)。江戸城を明け渡した徳川宗家の行き先です。

だが駿河にはすでに大名がいました。沼津藩の水野家五万石もその一つです。慶応四年七月、水野忠敬は駿河国内の領地二万三千七百石を上知され、上総国市原郡菊間への移転を命じられました。千葉県の資料では明治元年九月二十一日の転封とされます。

同じ玉突きで浜松藩鶴舞藩へ、掛川藩松尾藩へ、相良藩小久保藩へ、横須賀藩花房藩へ、田中藩長尾藩へ、小島藩桜井藩へ。駿河三藩・遠江四藩が房総へ運ばれました。

旅籠と寺で始まった藩政

移転は簡単ではありませんでした。城も陣屋もない土地です。まず先遣隊が送られ、八幡宿の旅籠を仮陣屋として測量と町割りを始めました。のちに仮陣屋は菊間の千光院という寺に移されています。

藩主・水野忠敬が実際に菊間に入ったのは明治二年七月二十六日。藩士の移住は明治元年から明治五年にかけて、何波にも分けて行われました。藩がまとまって引っ越すには、四年かかったです。

大浜騒動——三河の飛地で起きた事件

この藩が歴史に名を残したのは、菊間ではなく三河の飛地で起きた事件によります。

明治四年三月、菊間藩大浜出張所長・服部純が寺院の統廃合政策を打ち出しました。現在の愛知県碧南市にあたる地域です。これに真宗の寺院と門徒が猛反発しました。「大浜にヤソが出た」——キリスト教が入り込んだというデマが広がり、門徒が竹槍を手に蜂起して、鷲塚村で出張所の役人を襲いました。

真宗大谷派三河護法会の幹事だった僧・石川台嶺が主導したとされ、石川と暴徒一名が斬罪、多数が処罰されました。廃仏毀釈が地方でどう受け止められたかを示す事件として知られます。

三年で終わった

明治二年六月に版籍奉還で知藩事、明治四年七月の廃藩置県で免官。菊間県となり、同年十一月には木更津県に統合されました。

藩主は水野忠敬ただ一人。老中を出した沼津の名家が、上総の旅籠から出直して、三年で藩ごと消えました。忠敬は明治十七年に子爵となり、明治四十年に五十七歳で没しています。

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