【藩名】
興国寺藩
【説明】
豊臣秀吉の北条征伐により、徳川家康が関東に移ると豊臣家三中老の「中村一氏」が駿府城主として駿河14万5000石を領し、興国寺城には家臣の「河毛宗左衛門」が入りました。慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」直前に一氏は死去し、後を子の「中村一忠」が継ぎました。一忠は東軍に与して戦功を挙げたため、戦後に伯耆米子17万5000石に移封となり、代わって徳川譜代の家臣「天野康景」が1万石で入封しました。

康景は「本多重次」や「高力清長」らと並んで岡崎三奉行と称され、家康初期からその覇業を支えました。康景は藩政においては治水工事、農政などに尽力しました。しかし慶長12年(1607年)、藩の軽卒が農民を殺害したことから、代官が幕府に訴え出ました。藩の建築用木材を農民が奪おうとしたため、藩の軽卒が農民を殺したといわれています。
「本多正信」は康景に対して犯人引渡しを要求したが、康景は拒否したために改易され相模国小田原藩の西念寺に蟄居に処せられました。これにより興国寺藩は廃藩となるが、その後、天野氏は旗本として存続しました。
「どちへんなき」男が城を捨てた日
天野康景は天文六年(1537年)の生まれで、徳川家康より五歳の年長にあたります。幼いころから家康に近侍し、本多重次、高力清長とともに三河三奉行と呼ばれました。「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」。清長は寛大、重次は剛毅、そして康景はどちらにも偏らず慎重だという評です。
慶長六年(1601年)、康景は興国寺城主として一万石を与えられました。ところが城の修築に使う竹木の盗難が続き、見回りの藩士が盗人数名を斬ったところ、それが幕府直轄領の農民だったのです。天領の代官が幕府へ訴え、下手人の引き渡しを求めてきました。
家康の指示で交渉に来たのは本多正純です。正純は、地元の民といっても公儀の民である、と引き渡しを迫りました。これに対し康景は、正しきを曲げて間違ったことに従うのは自分の常の心掛けと違う、と拒みます。そして慶長十二年三月九日、城を捨てて出奔しました。七十一歳です。
康景が身を寄せたのは相模国の西念寺(現在の神奈川県南足柄市沼田)でした。小田原藩が同情して匿ったと伝わります。康景は慶長十八年二月にこの寺で世を去り、墓もいまそこにあります。南足柄市の指定文化財です。子の康宗は寛永五年(1628年)に赦免され、千石の旗本として家名を継ぎました。
興国寺城跡——北条早雲の旗揚げの城
興国寺城の跡は静岡県沼津市根古屋、愛鷹山から延びる尾根の上にあります。平成七年三月に国の史跡に指定されました。
見どころは二つです。一つは天守台で、礎石が残り、高さ三、四メートルの野面積みの石垣が立ち、富士山を望みます。もう一つが本丸の背後にある大空堀で、幅は二十メートル以上、深さも十数メートルと伝わる巨大な堀切です。堀の底を歩くことができます。本丸のなかには穂見神社が鎮座しています。
この城は、伊勢新九郎盛時、のちの北条早雲が旗揚げをした城として知られます。長享年間に富士郡下方の地を与えられて城主となったとされますが、同時代の史料による確証はなく、年次も資料によって揺れます。城そのものは康景の出奔とともに廃されました。
沼津兵学校——城の御殿が学校になった
根古屋や原の一帯は、藩がなくなったあと幕末まで幕府領でした。近くの沼津藩は水野家の藩で、幕末の藩主は水野忠敬です。明治元年七月、徳川家達の駿府藩(静岡藩)が立つのにともなって水野家は上総の菊間藩へ移され、沼津藩は消えました。
ここからが沼津のおもしろいところです。空いた沼津城の二の丸御殿に、明治元年十一月、駿府藩が沼津兵学校を設けました。頭取はオランダ留学から帰った西周です。旧幕臣の江原素六や矢田堀景蔵らが尽力し、全国から四十数人の教授陣を集めました。
授業の中身は、英語とフランス語の会話、万国地理、物理化学、天文、万国史、経済学、代数と幾何と三角と測量、そして歩兵学、砲兵学、築造学と、当時の日本で最高水準のものでした。附属の小学校と病院も置かれ、それぞれ現在の沼津市立第一小学校と沼津市立病院の前身となっています。
兵学校は明治四年九月に兵部省の直轄となり、翌明治五年五月に東京へ移って四年あまりで幕を閉じました。沼津駅前の城岡神社に、明治二十七年に徳川家の旧臣が建てた記念碑が残ります。沼津城そのものは明治五年に解体され、本丸跡は中央公園になりました。石碑が一つ立っています。
近くの原宿は東海道十三番目の宿場で、白隠禅師が生まれ、松蔭寺に眠る土地です。幕末の旅人もこの道を歩きました。
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