花房藩/西尾家3万5千石:西尾忠篤 徳川宗家の駿河移封の替地として横須賀藩から転封した西尾氏

【藩名】
花房藩

【説明】
明治元年(1868年)、遠江国「横須賀藩主」であった「西尾忠篤」が、安房長狭郡花房村に3万5千石をもって入部し「花房藩」が立藩されました。これは徳川宗家が江戸から「静岡藩」へ移封されたことによる替地としてあてがわれた所領です。

翌年の「版籍奉還」で忠篤は藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で花房藩は廃藩となり、花房県、そして木更津県を経て千葉県に編入されました。

【徳川宗家の引っ越しが生んだ藩】

花房藩は明治元年(1868年)に立ち、明治四年(1871年)に消えました。幕末というより、幕府が倒れたあとに生まれた藩です。

きっかけは慶応四年五月、徳川家達が宗家を継いで駿河・遠江七十万石の駿府藩主となることが決まったことでした。徳川家が静岡に入るために、駿河と遠江にいた大名は全員が房総へ玉突きで移されます。その数、駿河三藩と遠江四藩の合わせて七藩。

沼津藩は上総菊間藩へ、田中藩は安房長尾藩へ、小島藩は上総桜井藩へ、浜松藩は上総鶴舞藩へ、掛川藩は上総松尾藩へ、相良藩は上総小久保藩へ。そして遠江横須賀藩の西尾忠篤が、安房長狭郡花房へ三万五千石で入ったのが花房藩です。房総に領地を持っていた他の藩も玉突きで替地を受け、廃藩置県のとき千葉県は全国で最も多い二十五藩を抱えることになりました。

藩主の西尾忠篤は嘉永三年(1850年)生まれ。十一歳で家督を継ぎ、藩内が保守派と尊王派に割れるなか、家臣の説得を容れて新政府に恭順しました。

この藩が面白いのは、藩庁がずっと間に合わせだったことです。最初は横渚村にあった元岩槻藩の出張陣屋を借りて使い、明治二年五月にようやく花房村を新しい城地と定めて萩原台で陣屋の造営に取りかかりました。ところがどこまで工事が進んだのかも分からないうちに、明治四年の廃藩置県で中止になっています。

そのため花房陣屋の跡には遺構が残っていません。場所は千葉県鴨川市花房の萩原、待崎川に面した段丘の上です。城のない藩どころか、造りかけの陣屋しか持たなかった藩でした。

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六度の移封を重ねた家が、七度目に房総へ来ました

吉良氏の後裔を称する家でした

西尾家の開祖は西尾吉次といいます。吉良上総介満氏の後裔とされる家で、はじめ織田氏に仕えて三千石、のち徳川家康に仕えて天正十四年(1586年)に武蔵国足立郡原市で五千石を得ました。

そこからの移動が、この家の特徴です。慶長七年(1602年)に美濃で加増されて一万二千石の大名となり、元和二年(1616年)に上野白井藩二万石、そして常陸土浦藩、慶安二年(1649年)に駿河田中藩、信濃小諸藩を経て、天和二年(1682年)に遠江横須賀藩へ落ち着きました。ここまでで六回、国を替えています。老中を務めた西尾忠尚の代の加増を経て、最終的に三万五千石となりました。

面白いのは、慶安二年に西尾家が入った駿河田中が、のちに長尾藩となる本多家の城だったことです。二百年後、その本多家と西尾家は、同じ年に同じ理由で安房へ移されて隣り合うことになります。

佐幕と尊王に割れた藩を、家臣が説得しました

幕末の藩主、西尾忠篤は嘉永三年(1850年)の生まれです。文久元年(1861年)十月に父忠受の死去を受けて横須賀藩主となり、文久三年(1863年)正月に将軍徳川家茂に拝謁、同年十二月に従五位下隠岐守。十四歳前後での襲封でした。

慶応四年(1868年)、藩内は佐幕派と尊王派に分かれて争います。このとき八十美穂、青山善一郎といった家臣が忠篤を説得し、藩は新政府に協力する道を選びました。若い藩主に代わって家臣が方向を決めた、という形です。

藩庁は、他藩の出張所を借りて始まりました

安房へ移ったあとの藩庁がどこに置かれたかというと、これが間に合っていません。明治二年(1869年)八月、横渚村の蔵の台にあった元岩槻藩の取締出張所を仮の藩庁として使い始めます。よその藩が房総の飛地を治めるために置いていた建物を、そのまま借りたわけです。明治三年二月に新政府から藩役所を下賜され、明治四年になってようやく花房陣屋の造営に着手しましたが、その年の七月に廃藩置県が来て工事は中止されました。

どこまで工事が進んだのかも判然としません。鴨川市花房、待崎川に面した段丘の上に築かれるはずでしたが、遺構は残っておらず、文化財の指定もありません。建てかけの城が、建てかけのまま消えた藩です。

それでも学校は作りました

藩校の修道館が建てられたのは明治四年(1871年)二月です。陣屋の造営を始めたのと同じ年、廃藩の五か月前でした。藩庁も持たないまま、学校のほうを先に建てている。房総へ移された七つの藩は、どこも同じことをしています。小久保藩の盈進館も、長尾藩の日知館も、藩が消える一年前後に開かれました。領地も城もない状態で真っ先に作られたのが学校だった、という事実は記録しておく価値があります。

明治以後

忠篤は明治二年(1869年)六月二十四日の版籍奉還で知藩事となり、明治四年七月の廃藩置県で免官されました。明治十七年(1884年)七月八日に子爵。明治四十三年(1910年)十一月五日に六十一歳で没しています。家督は加藤泰秋の四男を養子に迎えた忠方が継ぎました。

花房藩の領地は安房国長狭郡六十か村、上総国望陀郡四十三か村、周准郡二十三か村、長柄郡二十二か村の計百四十八か村で、表高三万五千石に対し実高は四万三千五百六十石余ありました。国文学研究資料館には「安房国花房西尾家文書」が収められており、三年で消えたこの藩の一次史料が残されています。

【場所・アクセス・地図】

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