【藩名】
沼津藩
【説明】
安永6年(1777年)11月6日、水野忠友が三河大浜藩より2万石で転封してきたことによります。第2代藩主「水野忠成」は「徳川家斉」の時代に老中となり、「賄賂政治」を行なった人物として有名です。なお、忠成は文政4年(1821年)に1万石の加増を受け、さらに文政12年(1829年)にも1万石の加増を受けました。

忠成の死後、第3代藩主「水野忠義」や第4代藩主「水野忠武」は、「天保の改革」を行なった「水野忠邦」から徳川家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けました。
第6代藩主「水野忠寛」は「井伊直弼」に同調して側用人として幕末期に権勢を奮い、第7代藩主「水野忠誠」は佐幕派としての功績を挙げました。第8代藩主「水野忠敬」は慶応4年(1868年)に勃発した「戊辰戦争」では、「人見勝太郎」や「林昌之助(林忠崇)」率いる旧幕府遊撃隊が領内に侵入した際、好意的だったがほどなくして新政府軍に協力しました。
沼津藩と小田原藩の寝返りにより不意を突かれた遊撃隊幹部「伊庭八郎」はこの戦いで片腕を失いました。その後、江戸城無血開城・奥羽戦争を経て徳川宗家の存続が認められると「徳川家達」に駿府府中70万石が与えられ、沼津藩は上総菊間藩に移封となり廃藩となりました。
【場所・アクセス・地図】
沼津藩をもっと深く——長州征討の総大将が、出陣前に城中で死んだ
幕末の四代——井伊直弼を支え、老中を出した藩
沼津藩水野家は幕末の十数年で当主が四人替わっています。水野忠良(安政五年に二十五歳で死去)、水野忠寛、水野忠誠、そして最後の水野忠敬です。
忠寛は安政五年に奏者番、翌年には側用人にのぼりました。井伊直弼を支持し、徳川慶福——のちの家茂——の擁立に力を貸しています。だが桜田門外の変で直弼が斃れ、一橋派が復権すると、直弼与党として追われました。文久二年五月に全役職を辞し、閏八月に隠居しています。
慶応二年九月、沼津城中で
その跡を継いだ忠誠は老中にのぼりました。そして第二次長州征討の総大将に指名されます。本来この役は尾張藩の徳川慶勝が担うはずだったが固辞したため、忠誠に回ってきました。
ところが出陣の準備中、慶応二年九月十四日、忠誠は沼津城中で急死します。表向きの死去は十月二十八日とされました。急死の事情は資料で確認できません。
五万石の譜代大名が長州征討の総大将を務めるという事態そのものが、このときの幕府の人材難を物語っています。長州藩への二度目の遠征は、そのまま幕府の権威を崩していきました。
忠誠の死後、家督を継いだのは十五歳の忠敬でした。藩主が幼く、藩論をまとめる余裕もないまま、鳥羽伏見を迎えます。結果として沼津藩は新政府に恭順しました。
そして駿河を追われる
慶応四年五月、明治政府は徳川家達に駿河・遠江で七十万石を与えた(駿府藩)。徳川宗家が駿河へ入るということは、駿河にいた大名が出ていくということです。
同年七月、沼津藩は駿河国内の領地二万三千七百石を上知され、上総への移転を命じられました。移った先が菊間藩です。同じ玉突きで田中藩は長尾藩へ、小島藩は桜井藩へ、浜松藩は鶴舞藩へ、掛川藩は松尾藩へ、相良藩は小久保藩へ、横須賀藩は花房藩へ移されています。駿河三藩・遠江四藩が、まとめて房総へ運ばれました。
空になった城が、日本最初の兵学校になった
水野家が去ったあとの沼津城には、明治元年十一月、駿府藩が沼津兵学校を置きました。初代頭取は西周。設立に動いたのは江原素六・阿部邦之助・矢田堀景蔵といった旧幕臣たちです。
附属小学校は現在の沼津市立第一小学校の前身、江原素六が明治二年に設けた附属病院は沼津市立病院の前身にあたります。老中を出した城が、明治五年に東京へ統合されるまでの四年間、日本で最も進んだ士官養成機関になっていました。
なお当藩の石高は五万石とする資料と五万八千石とする資料があり、諸説あります。

