松尾藩(柴山藩)の歩み
明治元年(1868年)五月、駿河・遠江へ徳川宗家「徳川家達」が七十万石にて入封したため、遠江国掛川藩主「太田資美」は上総国武射山辺郡内に替地を与えられ移封となりました。資美は武射郡柴山村の観音教寺に仮藩庁を設置し、「柴山藩」を名乗りました。
翌明治二年(1869年)六月、版籍奉還をうけて柴山藩知事に任命されると、それまで間借りしていた寺の仮藩庁から、新たに新藩庁の地として武射郡大堤・田越・猿尾・八田の山林原野を開拓して町割りと縄張りを行い「松尾城」の築城を開始しました。
この城は西洋風の稜堡式要塞(多角形要塞)の形状を取り入れた城として築城されました。これにちなんで開拓地も松尾と命名しました。翌明治三年(1870年)十一月に藩庁と知事邸、および城下町が一応は完成し、明治四年(1871年)一月に正式に「松尾藩」を名乗りました。
明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」で、「松尾藩」は廃藩となり松尾県となります。この頃、松尾城は未完成のままでした。その後松尾城に県庁を置くが、同年十一月木更津県に合併されました。
松尾藩をもっと深く—太田道灌の子孫が、日本で最後の城を建てかけた
江戸城を築いた家の、その後
松尾藩の太田家は、太田道灌の血筋です。十五世紀に江戸城を築いた、あの道灌の家系が、江戸時代を通じて各地を移りながら幕末には遠江掛川藩五万三千石に落ち着いていました。
ところが明治元年、徳川宗家が駿府藩として駿河・遠江に入ることが決まります。そこに住んでいた譜代大名は、玉突きで別の場所へ移らなければなりません。行き先は房総でした。長尾藩、小久保藩、菊間藩、鶴舞藩、花房藩—同じ事情で房総へ渡った藩がずらりと並びます。太田家もその一つで、上総柴山に入り、まもなく松尾と改称しました。
江戸城を築いた家が、その江戸の主だった徳川家の都合で、江戸湾の向こうの原野へ動かされました。四百年かけて一周した皮肉です。
何もない土地に、藩庁を作る
移された先には城も屋敷もありません。藩としての体裁を整えるには、一から作るしかありませんでした。松尾藩は新しい城の建設に着手します。
時は明治です。周囲では版籍奉還が進み、藩という制度そのものが揺らいでいました。それでもなお城を建てようとしたのは、藩がまだ続くと思われていたからにほかなりません。制度の終わりは、内側にいる者にはなかなか見えません。
日本で最後に着工された城
松尾城の設計には、西洋の稜堡式—星形の縄張りの考え方が取り入れられていました。信州の龍岡城や函館の五稜郭と同じ発想で、大砲の時代に合わせた城です。
だが明治四年の廃藩置県で、工事は中止されました。天守も櫓も建たないまま、松尾城は未完のまま終わります。日本の城の歴史の、いちばん最後の一行がこれです。城跡には堀と土塁の痕跡が残るだけで、石垣らしい石垣もありません。
三年の藩が、地面に残した町割り
松尾藩が存在したのはわずか三年ほどです。それでも、この藩が引いた碁盤の目の町割りは、いまも山武市松尾の市街地に残っています。
藩は消え、城は建ちませんでした。残ったのは道の形だけです。だが道の形は、その土地を歩けば誰でも感じ取れます。最も短命だった藩の痕跡が、最も日常的な形で残っているのは面白いです。
桜井藩(貝淵藩)/松平家一万八千石:松平信敏 徳川宗家の駿河転封による替地として立藩
同じころの日本—徳川家の駿河移封
静岡藩の誕生 松尾藩(柴山藩)が生まれた明治元年(1868)、新政府は徳川家を駿河・遠江などで七十万石の静岡藩とし、徳川家達を藩主としました。そのため、駿河・遠江に領地を持っていた譜代の大名たちは、ほかの土地へ移されることになります。
掛川から上総へ 遠江の掛川藩主だった太田資美もその一人で、上総の柴山(のちに松尾)へ移りました。静岡には多くの旧幕臣が移り住み、駿河・遠江の大名たちが入れ替わるようにして関東などへ移っていったのです。
掛川を偲ぶ「松尾」と、設計図どおりの城
地名に込めた故郷
「松尾」という地名は、旧領・掛川城の別名「松尾城」から取ったもので、明治3年(1870)に故郷をしのんで名づけたといわれます。藩主の太田資美は嘉永7年(1854)生まれで、明治17年に子爵となり、大正2年(1913)に没しました。実父は老中を3度務めた太田資始で、その七男とされますが、先代の資功の四男とする説もあります。
教養館と好生所
資美は藩校「教養館」と病院「好生所」をつくりました。好生所は貧しい人に無料で往診し、高齢者には手当を出したとされます。物産会所を置いて養蚕を奨励し、役人を選挙で選ばせたこともあったと伝わります。
明治の新しい城
城の縄張りは算学者の磯辺泰が担ったとされ、家紋にちなむ「桔梗台」に藩知事邸と長屋門を置いて、藩庁と知事の住まいを分けた造りでした。設計図どおりに築かれた珍しい例として知られています。藩庁跡には「松尾藩公庁跡」の碑があり、知事邸と長屋門は移築されて残ります。平成27年(2015)には松尾IT保健福祉センター内に「松尾藩資料館」が開館しました。
考察:江戸時代最後に生まれた城下町
廃藩置県のわずか前に、選挙や病院まで備えた新しい町をつくろうとした。松尾藩は、藩という仕組みが最後に見せた理想図だったのかもしれません。短い命だったからこそ、その設計思想がそのまま残っている点に価値があると思います。
松尾藩をもっと詳しく
道灌の家が大名になるまで
松尾藩の太田家は、太田道灌の曾孫とされる太田康資の子・重正に始まる家です。ただし、重正が康資の実の子であるかどうかは確かではないとする説もあります。康資は小田原の北条氏に仕えたのち離反し、安房の里見氏のもとへ逃れました。重正は北条氏が滅んだあと徳川家康に仕え、天正19年(1591年)に武蔵国豊島郡蓮沼で500石を与えられています。
家を大きくしたのは、重正の次男・太田資宗です。重正の妹とされる英勝院が家康の側室で、資宗はその養子となっていました。資宗は慶長5年(1600年)の生まれで、家康の側近から3代将軍・家光の側近へと進み、寛永10年(1633年)に、のちの若年寄にあたる六人衆に加わります。寛永12年(1635年)には下野山川藩1万5600石の大名となり、寛永15年(1638年)に三河西尾、正保元年(1644年)に遠江浜松へ移りました。寛永18年(1641年)から20年(1643年)にかけては奉行として、林羅山らとともに大名・旗本の系図集『寛永諸家系図伝』をまとめています。
掛川から上総へ—二転した移封先
最後の藩主・太田資美は、文久2年(1862年)3月29日、養父の資功が亡くなったため、8歳で掛川藩主となりました。慶応4年(1868年)1月には旧幕府から駿府城の守りを命じられましたが、2月に引き揚げ、3月には新政府に従う意思を示すため京に上って参内しています。
徳川家達の駿河入りにともなう移封先は、同年9月にいったん上総国夷隅郡と命じられました。それが11月に改められ、山辺郡などの5万3350石に決まっています。柴山藩と名乗った時期は、明治元年(1868年)とする資料と、明治2年(1869年)5月とする資料があります。
松尾城をつくった人びと
松尾城の設計と築城の責任者は、藩の勘定奉行・犬塚一郎治でした。工事は明治2年(1869年)9月に始まります。九十九里浜を望む木戸川東岸の台地で、中央のいちばん高いところに藩庁を置き、城内には兵舎や物産会所、米倉も計画されました。城の外には侍屋敷を区画し、それを土塁と堀で囲む予定だったといいます。
廃城のあと、建物は払い下げられて移されました。藩知事邸は匝瑳市に、長屋門は山武市にいまも残っています。知事邸の跡には昭和34年(1959年)に松尾中学校が開かれ、昭和45年(1970年)には城の南端を含む土地に松尾高校が移ってきました。平成6年(1994年)には中学校の改築にあわせて発掘調査が行われています。城下には侍屋敷の跡や土塁の跡が多く残っています。
明治の資美—慶應義塾と東京仏学校
廃藩置県で知藩事を免じられた資美は、明治9年(1876年)12月に宮中祗候となりました。その後は、慶應義塾が外国人教師を招くための資金を支えたり、東京仏学校の設立に力を尽くしたりと、教育や芸術の分野で活動しています。東京仏学校は、のちの法政大学の源流の一つです。
5万3350石の軍役の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことが目安とされていました。松尾藩の5万3350石に当てはめると、およそ1250人になります。ただし、この規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。


