横須賀藩の歩み
天和二年(1682年)、「本多利長」は江戸城にて罪状を読み上げられた上で横須賀藩を改易されました。利長が改易されると信濃小諸藩より「西尾忠成」が二万五千石で入封しました。幕末になると西尾氏は譜代の名門大名であることから佐幕派と尊皇派に分裂して抗争が続きました。

戊辰戦争が始まると尾張藩の説得を受け、新政府軍に従うことで藩論を統一させました。その後、横須賀藩は新政府の東征軍に協力し各地に転戦しました。明治元年(1868年)、第8代藩主「西尾忠篤」は安房花房藩に移封され横須賀藩は廃藩となりました。
遠州横須賀の譜代大名
横須賀藩は、遠江国(現在の静岡県掛川市横須賀)に置かれた二万五千石の藩で、藩主は譜代の西尾家でした。相模の三浦半島の横須賀とは別で、遠州灘に近いこの地で、横須賀城を中心に城下が営まれていました。徳川譜代として、東海道筋に近い要地を預かる立場にありました。
尊皇でまとまった幕末
幕末の横須賀藩は、譜代大名でありながら藩内が佐幕・尊皇に分かれて揺れましたが、戊辰戦争にあたっては尊皇の立場でまとまり、新政府側として時代の転換を乗り切りました。譜代の家でありながら現実的な選択をした、幕末の小藩の一つの生き方を示しています。
海が退いて、城が港を失いました
横須賀城でまず知っておきたいのは、この城が最初は海に面していたということです。築城当時は三方を入江と沼に囲まれた要害の地で、内湖に南面する水陸交通の要地でした。城のすぐ下に湊があり、船で兵と物を動かせる城だったわけです。
その湊が、地震で消えます。
宝永四年十月四日(1707年10月28日)の宝永地震で、遠州灘沿岸が隆起しました。当時の記録には「海辺通つよくゆり上ヶ、横須賀湊干潟の平地と成り候」とあります。産業技術総合研究所の地質調査総合センターが報告したボーリング調査でも、標高一・一メートルから〇・四メートル付近で潟湖の泥から湿地の堆積物へ層相が変わっており、年代測定値も十七世紀から十八世紀と整合しています。同じ報告は、安政元年(1854年)の安政東海地震による約〇・九メートルの隆起にも触れています。
湊を持つ水運の城が、二度の地震で内陸の城になった。幕末の横須賀城は、そういう状態でそこにありました。
両頭の城、玉石積みの石垣
横須賀城は天正六年(1578年)、徳川家康が家臣の大須賀康高に命じて築かせた城です。目的は高天神城の攻略でした。長篠合戦のあと、武田方が高天神城を奪い返すのを防ぎ、そこを締め上げるための付城群の中核として置かれています。天正九年(1581年)に高天神城が落ちると、横須賀城は遠州南部の統治と軍事の拠点へ役割を変えました。高天神城跡は北西約二キロ、こちらも国の史跡です。
城の特徴は二つあります。一つは玉石積みの石垣。角のとれた丸い河原石を積んだ石垣で、全国的にも珍しいものです。もう一つは大手門が東西に二つあったことで、このため「両頭の城」と呼ばれました。ほかに天守台・本丸・西の丸が丘陵上に配され、舟入状の隠し堀もありました。掛川市は、明治維新まで二百八十八年、二十代の城主を数えたとしています。
藩主家は五つ替わりました
横須賀藩の藩主家は、大須賀・松平・井上・本多・西尾の五家です。井上家が入っていることを落としやすいので、順に書いておきます。
慶長六年(1601年)二月に大須賀家が五万五千石。元和五年(1619年)十月に松平家が二万六千石で入り、のち四万石に加増。元和八年(1622年)に井上家が五万二千五百石。正保二年(1645年)以降が本多家の五万石で、天和二年二月二十二日に本多利長が改易されます。
その直後、天和二年(1682年)三月九日に西尾忠成が二万五千石で入りました。忠成は駿河田中藩初代の西尾忠昭の長男で、承応二年(1653年)生まれ。延宝七年(1679年)九月六日に信濃小諸へ移り、その三年後に横須賀へ来ています。正徳三年(1713年)に六十一歳で没しました。以後、西尾家が幕末まで続きます。
七代西尾忠受(ただつぐ)は文政四年(1821年)生まれ、天保十四年(1843年)八月七日に襲封しました。茶と樹木の栽培で藩財政の再建を図った人で、絵画にも造詣が深く「華渓」と号しています。二万五千石の藩が財政をどう立て直すかという問題に、茶で答えようとしたわけです。
十八歳の藩主と、割れた藩内
幕末の藩主は西尾忠篤(ただあつ)。嘉永三年(1850年)生まれで、文久元年(1861年)十月十三日、父忠受の死去により襲封しました。慶応四年(1868年)には十八歳です。
横須賀藩は譜代でしたから、藩内は佐幕派と尊皇派に分かれ、慶応四年に入っても抗争が続きました。最終的には八十美穂・青山善一郎らの説得によって新政府(東征軍)への協力に踏み切り、藩としては尊皇で統一されています。年若い藩主の下で藩論をまとめたのは、この家臣たちでした。
城を捨てて、房総へ
ところが、その判断の直後に横須賀藩そのものが遠江から消えます。
慶応四年五月二十四日、徳川家達に駿河・遠江・三河の七十万石が与えられました(駿府藩=のちの静岡藩)。徳川宗家が駿河へ移ってくるということは、その土地にいた大名が出ていくということです。駿河の三藩(沼津・田中・小島)と遠江の四藩(浜松・相良・横須賀・掛川)が、まとめて上総・安房へ動かされました。
横須賀藩の西尾忠篤が入ったのは安房国長狭郡の花房、現在の千葉県鴨川市です。表高三万五千石、実高は四万三千五百六十石余。領地は安房国長狭郡六十か村、上総国望陀郡四十三か村、周准郡二十三か村、長柄郡二十二か村の計百四十八か村に分かれていました。これが花房藩です。
石高が二万五千石から三万五千石へ増えているので、一見すると出世のようにも読めます。しかし領地は四つの郡に散り、城はありません。明治二年六月には仮の藩庁を長狭郡横渚村に置くところから始めています。玉石垣の城と湊のあった土地を出て、百四十八か村の飛び地を受け取った、というのが実際のところです。
城が去っても、祭は残りました
藩が房総へ移り、城が港を失い、それでも横須賀に残ったものがあります。三熊野神社大祭の「祢里(ねり)」です。
横須賀では山車を祢里と呼びます。神輿渡御のお供、つまり付け祭りとして発達したもので、享保年間(1720年頃)に第十四代横須賀城主の西尾隠岐守忠尚が、江戸の天下祭(神田祭・山王祭)の祭り文化を横須賀に伝えたとされます。
この祢里の形は「一本柱万度型」と呼ばれ、江戸中期の天下祭を描いた絵巻にも見られるものです。ところが発祥地の東京ではこの形は姿を消し、現在は横須賀の近隣にのみ残っています。城主が江戸から持ち帰った祭の形が、江戸では絶えて遠州の町に生き残った、ということです。
祭の音楽である三社祭礼囃子は、昭和三十年に静岡県指定無形文化財の第一号となりました。地固め舞と田遊びも県指定無形民俗文化財です。大祭は四月上旬に行われます。
藩主の家は房総へ去り、城は石垣だけになり、湊は陸になりました。それでも城主が伝えた祭の形だけは、三百年たったいまも横須賀の町を動いています。
城跡とその後
横須賀城跡は昭和五十六年(1981年)五月八日に国の史跡に指定されました。所在地は静岡県掛川市山崎。石垣・堀・土塁が残り、公園として整備されています。玉石積みの石垣は、いま実際に見ることができます。
明治二年(1869年)六月二十四日、西尾忠篤は藩知事となり、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で免官されました。花房県は木更津県を経て千葉県になります。忠篤は明治十七年(1884年)七月八日に子爵となり、その後は東京へ移って明治四十三年(1910年)十一月五日、六十一歳で亡くなりました。
横須賀藩をもっと詳しく
先祖の戦国武将・西尾吉次
横須賀藩西尾家の家名のもとになったのは、西尾吉次です。吉次の家は清和源氏の流れをくむ籾井氏の分かれで、父の西尾信光が三河国幡豆郡西尾村に移り住んで西尾氏を名乗ったとされます。吉次ははじめ織田信長に仕え、天正十年(1582年)には徳川家康のもてなし役を命じられました。その直後に本能寺の変が起こると、吉次は家康を護衛して伊賀越えに加わり、無事に送り届けて、そのまま家康の家臣になりました。
天正十八年(1590年)、家康の関東入りにともなって武蔵国足立郡原市に五千石を与えられ、慶長七年(1602年)に美濃国内で七千石を加えられて一万二千石の大名となります。吉次は慶長十一年(1606年)に伏見で七十七歳で亡くなりました。
血筋は酒井家から
吉次の跡を継いだ西尾忠永は、実は徳川家の重臣・酒井重忠の三男です。慶長四年(1599年)に吉次の娘と結婚し、吉次の養子となりました。江戸時代の西尾家は、名字は西尾のまま、男系では酒井家の血を引く家ということになります。
忠永は元和二年(1616年)に上野国群馬郡で二万石を領して白井城に入り、元和四年(1618年)には常陸国新治郡二万石で土浦城主となりましたが、元和六年(1620年)に三十七歳の若さで土浦で亡くなりました。その子が慶安二年(1649年)に五千石を加えられて駿河田中へ移り、田中・信濃小諸を経て、天和二年(1682年)に本文にある西尾忠成が横須賀へ入ります。武蔵原市、上野白井、常陸土浦、駿河田中、信濃小諸、遠江横須賀、そして明治元年(1868年)の安房花房と、西尾家は江戸時代を通じて七つの土地を渡り歩いたことになります。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、二万五千石のこの藩はおよそ五百九十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「西尾吉次」「西尾忠永」「西尾忠照」「西尾忠成」



