須坂藩の歩み
幕末の藩主・第13代「堀直虎」は家老ら41人を粛清し藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入します。幕政にあっては、維新の中にあり大番頭等を経て若年寄兼外国総奉行に任じられました。慶応四年(1868年)一月、「徳川慶喜」に自分の意見が聞き入られなかったため、江戸城中で諌死します。(勝海舟は乱心して自害したとしている)
その後須坂藩は佐幕の方針を転換し、小山・結城などの北関東方面や、北越戦争、会津戦争に出兵します。信濃国内の諸藩の中でも特に大勢の藩兵を送り、新政府への恭順の姿勢を明確にしました。最後の藩主「堀直明」は「版籍奉還」により須坂藩知事となり、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で須坂藩は廃藩、あらたに須坂県となり、同年十一月には長野県に編入されました。
信濃須坂の堀家
須坂藩は、信濃国高井郡(現在の長野県須坂市)に置かれた一万石の藩で、藩主は堀家、陣屋を構える小藩でした。善光寺平の東に位置し、後年は製糸業で栄える須坂の町を治めた藩です。
方針を転じて各地を転戦
戊辰戦争の直前、須坂藩は新政府軍へと方針を転換し、以後は北関東の戦いや北越戦争、会津戦争へと兵を送って各地を転戦しました。小藩ながら、時流を見極めて身を処し、新政府側の一員として動乱の各地に加わっています。
諫死した藩主を祀る神社が、陣屋跡に建っています
堀直虎の最期と、奥田神社
須坂市公式によれば、十三代堀直虎は十一代直格の五男として江戸藩邸に生まれ、漢学・国学・武術・蘭学を学びました。黒船が来たときは十七歳です。文久元年(1861年)に二十六歳で藩主となり、租税の免除を含む「新民処置」を行いました。
慶応三年十二月五日に若年寄兼外国総奉行となり、その翌年の一月十七日、江戸城での会議のあとに自刃しました。日本大百科全書はこれを「諫死」と書いています。上の段にある勝海舟の見方も含め、言い方は資料によって異なります。
直虎は大正十三年(1924年)に従四位を追贈され、明治十四年には旧藩の家臣たちが、藩祖の堀直重と直虎を祀る奥田神社を須坂藩の居館跡に造営しました。館の跡は、いまの須坂市立博物館一帯にあたります。
県内にただ一つ残る郡役所
須坂市公式によれば、旧上高井郡役所は大正六年(1917年)の建築で、長野県内に唯一残る郡役所の建物です。木造二階建ての洋風建築で、外壁はドイツ下見。郡役所から連合事務所、保健所と使われ、平成十八年に市へ譲渡されて改修され、いまは文化交流施設です。令和二年(2020年)三月六日に須坂市の有形文化財となりました。
町並みそのものも残りました。令和六年(2024年)八月十五日、「須坂市須坂伝統的建造物群保存地区」が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。種別は製糸町・商家町で、面積は約18.3ヘクタールです。
製糸の町になったのは、廃藩のあとです
須坂市公式によれば、須坂では明治五年の富岡製糸場の操業を受けて糸師の仲間が富岡や前橋を視察し、明治七年に洋式の製糸場をつくりました。翌明治八年五月には、日本で初めての製糸結社といわれる「東行社」が生まれています。明治二十二年には、東行社と俊明社を合わせて加盟工場百二、工女は約三千五百人にのぼりました。平成十九年十一月には、まゆぐらや俊明社跡などが近代化産業遺産に認定されています。
最後の藩主直明
堀直明は天保十年(1839年)九月三日に生まれ、慶応四年五月二十四日に養子として家督を継ぎました。上の段にある北越(→長岡藩)や会津(→会津藩)への出兵は、この直明の代のことです。直明は明治十七年七月八日に子爵となり、明治十八年(1885年)九月十八日に亡くなりました。
藩校は十一代直格が創立した立成館です(日本大百科全書。創立年はわかっていません)。石高は一万五十三石とする資料と一万二千五十石とする資料があります。
諫死した藩主を祀る神社、県内に一つの郡役所、そして製糸の町並み。須坂に残っているのは、藩そのものよりも、藩のあとに来たものかもしれません。
奥田の姓と、江戸城で自刃した殿様—須坂藩の堀家
堀直政の四男
須坂藩の藩祖・堀直重は、堀秀政の家老・堀直政の四男です。直政のもとの名字は奥田で、陣屋跡の奥田神社の名はここから来ています(村松藩・椎谷藩も同じ一族です)。直重は関ヶ原の東軍の功で須坂などを得て、大坂の陣のあと一万二千石になりました。家格は外様、殿席は柳間です。直重は譜代並みの扱いを望みましたが、認められなかったといいます。
絵画史を書いた殿様
二代直升が弟たちに領地を分けたため、須坂藩は一万石になりました。歴代藩主は大番頭、大坂・駿府の加番、伏見奉行などを務めています。十一代直格は『扶桑名画伝』などの絵画史の著作を残し、十二代直武は薬用人参や吉向焼を育てる財政改革を試みました。
直虎の正室と、臥竜山の霊廟
十三代の堀直虎の正室は、上田藩主で老中を務めた松平忠固の娘でした。忠固は日米修好通商条約の調印を進めた老中の一人で、直虎は開国を進めた幕閣の家と縁を結んでいたことになります。直虎の霊廟は、須坂の興国寺の裏にある臥竜山の中腹にあります。興国寺は明応二年(1493年)創建と伝わる曹洞宗の寺で、鐘は永正二年(1505年)の鋳造です。
陣屋跡に残るもの
須坂陣屋の跡には、奥田神社近くの石垣と鐘楼が残り、長屋門は市内の酒造店に移されています。最後の藩主・直明は直虎の異母弟で、戊辰戦争では北越・会津に出兵しました。明治十年に一族の古い姓・奥田に戻っています。江戸城で命を絶った兄と、新政府軍として戦った弟。須坂藩の幕末は、兄弟で分かれた二つの道の物語です。
須坂藩をもっと詳しく
はじまりは下総の矢作
藩祖の堀直重が最初に得た領地は、信濃ではなく下総国の矢作(現在の千葉県香取市)でした。関ヶ原の戦いのあとに2000石を与えられて矢作に居館を構え、慶長15年(1610年)に信濃国高井郡で6000石を得ます。元和元年(1615年)に同じ高井郡で4053石を加えられたのをきっかけに、本拠を須坂へ移しました。須坂藩の始まりを元和元年とするのはこのためです。2代直升が矢作の2000石を弟たちに分けたあと、須坂藩の領地は高井郡の13か村にまとまりました。
兄の改革を担った家老を、弟が退ける
上の段にある12代直武の財政改革で用いられたのが、家老の野口源兵衛らでした。改革は領民の支持を得られず、財政はかえって苦しくなります。文久元年(1861年)11月6日、直武の隠居を受けて同じ母から生まれた弟の直虎が跡を継ぐと、直虎はこの野口源兵衛をはじめとする41人を退けて藩政を入れ替えました。本文にある「家老ら41人の粛清」は、兄の代の改革を担った人々を弟が一掃した出来事だったことになります。
直虎が取り入れた洋式の軍制は英国式でした。直虎は若いころ杉田玄端に蘭学を、上田藩士の赤松小三郎に兵学を学んでいます(→上田藩)。赤松はのちに議会による政治を説き、慶応3年(1867年)に京都で斬られた人物です(→赤松小三郎暗殺とは)。
藩校・立成館を開いたのは誰か
須坂藩の藩校は立成館です。開いたのは11代直格とする資料と、それより前の9代直皓とする資料があり、創立の年ははっきりしていません。直皓・直格の時代の藩主たちは、大番頭や大坂・駿府の加番といった幕府の勤めで江戸と上方を行き来しながら、国元の学問所を整えていきました。のちに直虎が杉田玄端や赤松小三郎のもとで洋学や兵学を学んだのも、学問を重んじる家の気風を受け継いだものといえるでしょう。
若年寄になるまでの5年間
直虎は家督を継いだ10日後の文久元年11月16日に従五位下・長門守となり、のちに内蔵頭と改めています。
直虎は文久3年(1863年)9月15日に大番頭となりました。元治元年(1864年)、水戸の天狗党が筑波山で挙兵した騒ぎ(→天狗党の乱とは何だったのか)では、7月8日に討伐を命じられます。ところが同じ月の13日、幕府に意見したことをとがめられて差控(謹慎)を命じられました。それでも同年9月には江戸市中見廻役、慶応元年(1865年)12月には呉服橋門の門番を任され、慶応3年(1867年)12月5日に若年寄兼外国総奉行に就いています。江戸城で命を絶ったのは、それからわずか1か月半ほどのちのことでした。
直虎の死はどう届け出られたか
直虎が自刃した理由には、大政奉還を勧めて慶喜や幕府の保守派に疎まれたとする説と、徹底抗戦を説いて聞き入れられなかったとする説があります。国元の須坂藩は慶応4年(1868年)3月10日、東山道を進む新政府軍に対し、大坂から戻った慶喜に恭順を勧めたが聞き入れられず自害した、と届け出ました。新政府は5月14日、旧幕府の若年寄としての責任は重いとしながらも、本人がすでに亡くなっていることと死の経緯をくみ、処分を免じます。同時に、弟の直明が養子として跡を継ぐことも認められました。
この1月には、直虎と親しかったとされる土佐新田藩主の山内豊福も、旧幕府と本家の土佐藩とのあいだで板挟みになり、夫人とともに自害しています(→土佐新田藩)。
1万石の軍役は約240人
慶安2年(1649年)に幕府が定めたとされる軍役の規定(案)では、1万石につき235人を出すことになっていました。これを須坂藩の1万石に当てはめると、動員できる兵の目安はおよそ240人です。ただし、この規定は案のままで実際には発布されなかったとする説もあります。戊辰戦争で須坂藩は、信濃の諸藩のなかでも特に多くの兵を北関東・北越・会津へ送ったとされます。



