椎谷藩/堀家1万石:堀之美 戊辰戦争では北越戦争の激戦の地となった椎谷藩

椎谷藩 堀家1万石 最後の藩主 堀之美
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椎谷藩の歩み

明治元年(1868年)の「戊辰戦争」において、椎谷藩領内は「北越戦争」における激戦の舞台となり、甚大な被害を受けました。最新式装備を誇る長岡藩兵と薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍による攻防戦が繰り広げられました。

この激戦は長岡藩筆頭家老の「河井継之助」が負傷したことにより新政府軍が勝利しました。翌年、椎谷藩主「堀之美」は「版籍奉還」により椎谷藩知事となり華族に列しました。そして明治四年(1871年)の「廃藩置県」により椎谷藩は廃され、椎谷県が置かれます。

藩主堀家は明治十七年(1884年)の華族令で子爵に叙されています。

越後の小藩・椎谷

椎谷藩は、越後国刈羽郡椎谷(現在の新潟県柏崎市椎谷)に置かれた一万石の藩で、藩主は堀家、城を持たず陣屋を構える小藩でした。日本海に面した越後の地にあって、周囲を大藩に囲まれた小さな大名家でした。

北越戦争の戦火のなかで

戊辰戦争のなかでも屈指の激戦となった北越戦争では、長岡藩の河井継之助らが新政府軍と死闘を繰り広げ、越後一帯が戦場となりました。椎谷藩の地もその戦火に巻き込まれ、小藩ながら動乱の最前線に立たされます。大藩の狭間で戦乱に翻弄された、越後の小藩の苦難を伝える一藩です。

村松の分家ではない—堀三家と、焼けた陣屋

椎谷の堀家は、村松藩の分家ではありません。堀直政という一人の人物の子から、村松・椎谷・須坂の三つの家が分かれ、いずれも大名として明治維新を迎えました。椎谷は直之の系統です。

ただし幕末に、この二家は縁組で直結します。椎谷の最後の藩主である堀之美に子がなく、旧村松藩主の家から迎えた養子の直紹(村松藩主だった堀直賀の嫡男)が跡を継いだからです。明治10年(1877年)に堀三家がそろって奥田と改姓したため、直紹は奥田直紹の名でも知られます。村松の当主の子が椎谷の家を継ぐという形で、二百五十年を経て二つの家がつながったことになります。

参勤交代をしない大名

椎谷藩の一万石は、六代の直恒以降、参勤交代を行わない定府大名でした。江戸に住み続ける大名です。飛地は上総・下総・相模・甲斐・信濃に及び、のちに越後国内へまとめられていきます。陣屋は日本海を望む標高二十メートルほどの台地の上にあり、三千坪ほどの敷地に藩主の邸、馬場、勤番所、砲術の稽古場が置かれていました。

この家には、寛政四年(1792年)の重い処分があります。天明の飢饉のときの蔵米の扱いが領民の反発を招き、天明義民事件に発展したためです。幕府は当主の隠居、三河西尾藩主の子を嗣子に迎えること、そして越後五千石の半知替えを命じました。替地となった信濃高井郡六川村には六川陣屋が置かれ、その跡は昭和五十四年(1979年)に長野県小布施町の史跡に指定されています。同じ町にある小布施陣屋跡は幕府の代官所の跡で、別のものです。

兵火で全焼した陣屋

戊辰戦争では新政府側につきました。慶応四年(1868年)三月二日、江戸にいた藩主に代わって重臣が北陸道鎮撫総督のもとへ出頭し、恭順を伝えています。藩主の之美も江戸を発ち、途中で東山道鎮撫総督に行き会って金一千両と米七百俵を献じましたが、見返りは得られませんでした。

そして同年五月、領内が北越戦争の戦場となり、陣屋は兵火で全焼します。藩は九月に二万両の拝借を願い出ましたが認められませんでした。新政府側についても、戦場になれば失うものは同じだったということです。

之美は明治十五年(1882年)八月に亡くなっており、明治十七年七月の華族令のときには世を去っていました。子爵を授けられたのは養子の奥田直紹です。椎谷陣屋跡は昭和四十六年(1971年)四月十三日に新潟県の史跡に指定され、土塁と郭が残って地元では「お屋敷」と呼ばれています。初代の藩主が良馬の育成を奨励したため、椎谷には馬市の跡も残ります。廃藩後は椎谷県となり、柏崎県を経て明治六年(1873年)に新潟県へ入りました。

道明寺の戦いの武功から始まった家—椎谷藩の堀家

薄田兼相を討った堀直之

椎谷藩の堀家の祖・堀直之は、越後の堀直政の子で、村上藩主・堀直寄の兄弟にあたる人です。大坂夏の陣の道明寺の戦いでは、豊臣方の勇将・薄田兼相を討ち取ったとされます。その後、江戸の北町奉行や寺社奉行を務めました。直之の正室は春日局の姪とされ、家光の乳母の一族とつながっていました。家格は譜代とする説と外様とする説があります。

江戸に住む定府の藩

椎谷藩は、六代藩主のころから参勤交代をせず江戸に住む「定府」の藩になったとされます。幕末の藩主の正室には、老中・安藤信正の娘がいました。椎谷(いまの新潟県柏崎市)は日本海に面した小さな町で、かつては馬市が開かれたことでも知られます。陣屋跡には土塁が残り、案内看板が立っています。

幕末—岩鼻への献金と、奥田への復姓

戊辰戦争のとき、藩主の堀之美は新政府軍の岩鼻の陣に千両と米七百俵を差し出したとされます。小藩が新政府に従う意思を示すための献金でした。明治になると、堀家は先祖の旧姓である「奥田」に姓を戻しています。

武功で始まり、献金で幕末を越えた

道明寺で敵将を討った武功で始まった家が、二百五十年後には千両の献金で新しい時代を乗り切る。刀の時代から銭の時代へ、椎谷藩の始まりと終わりは、江戸時代の大名の生き残り方の変化をよく表していると思います。

椎谷藩をもっと詳しく

旗本から大名へ、上総を経て椎谷へ

藩祖の堀直之は、元和2年(1616年)7月、大坂の陣の軍功によって越後国沼垂郡で5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置きました。この時点ではまだ大名ではなく、旗本です。寛永19年(1642年)に跡を継いだ堀直景は、父の遺領9500石と自分の領地の一部などを合わせて1万石とし、上総の苅谷に陣屋を置いて大名に列しました。この家はその後、陣屋を同じ上総の八幡へ移しています。

正式に椎谷藩が始まるのは、元禄11年(1698年)、4代の堀直宥が越後国の沼垂・三島・蒲原の3郡で1万石を与えられ、椎谷に移ってからです。藩祖が椎谷に陣屋を置いてから80年あまり、上総での時代をはさんで、堀家は越後の椎谷へ戻ってきたことになります。

天明義民事件の引き金になった蔵米の入札

寛政4年(1792年)の重い処分につながった天明義民事件には、前段があります。8代藩主の堀著朝は病弱で、分家の堀直基が代わって政務を執っていました。天明の大飢饉で米の値段が跳ね上がるなか、直基は藩の蔵米を競争入札で売り払います。米を手に入れにくくなった百姓たちはこれに激しく反発し、直訴と藩による弾圧が何年にもわたって繰り返されました。幕府は5回の評定を重ねたうえで裁定を下し、このとき嗣子に立てられたのが、三河西尾藩主松平乗祐の七男の直起です。

家老が藩主の暗殺を企てた事件

12代藩主の堀之敏は、文政13年(1830年)10月に父の直哉が亡くなったため、11歳で家督を継ぎました。嘉永4年(1851年)には、家老の斎藤八百四郎が之敏の暗殺を企てる事件が起きています。動機や経緯の詳しいことはわかっていませんが、こうした出来事が重なって、幕末の椎谷藩の藩政は落ち着かなかったとされます。

開港直後の外交にかかわった若年寄

それでも之敏は幕府の役職を着実に上っていきました。弘化2年(1845年)に大番頭、嘉永2年(1849年)に奏者番となり、安政7年(1860年)1月15日には若年寄に就任します。桜田門外の変の直後にあたる万延元年(1860年)閏3月には外国掛を命じられ、7月には会計掛も兼ねました。文久元年(1861年)4月には神奈川港を視察しています。

文久2年(1862年)閏8月には将軍徳川家茂の上洛の用掛を命じられましたが、11月に病気のため免じられ、12月8日に亡くなりました。参勤交代をしない1万石の定府大名が、開港直後の外交と財政の実務にかかわっていたことになります。跡を継いだのが次男の之美で、北越戦争のときの藩主です。

軍役から見た規模

慶安2年(1649年)の軍役規定とされるものでは、1万石あたり235人を動員するのが目安とされます。椎谷藩の1万石ならちょうど235人、十人単位に丸めると240人ほどです。ただしこの規定は案にとどまり、実際には発布されなかったとする説もあります。

あわせて読みたい

椎谷へ移る前の堀家については上総苅谷藩と上総八幡藩のページで、同じ堀直政の子孫が治めたもう一つの1万石については須坂藩のページで取り上げています。

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