村松藩/堀家3万石:堀直弘 藩主直賀は同盟に従い米沢へ逃れ、勤王派が直弘を立てて降伏した村松藩

村松藩 堀家3万石 最後の藩主 堀直弘
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村松藩の歩み

幕末期の村松藩内では尊王論が台頭し、尊王攘夷と軍制改革を主張する一派と対立し、慶応二年(1866年)十一月に「村松七士事件(尊王攘夷派7名を保守派が処刑した事件)」が起こるなど、藩内は混乱を極めました。

このため「戊辰戦争」に際して、新政府に与するべきと主張する正義党の「近藤安五郎」を中心とした一派と、第11代藩主「堀直賀」を中心とした保守的な佐幕派に藩論が分裂しました。藩主が「奥羽越列藩同盟」に参加し、新政府軍からの攻撃を受けて米沢藩に逃れると、安五郎は第9代藩主「堀直央」の末子に当たる「堀直弘」を新藩主として擁立して即座に新政府に降伏しました。

このため、村松藩は所領を安堵されました。明治四年(1871年)の「廃藩置県」により村松県となり、同年末には新潟県に併呑されました。

越後の小藩・村松

村松藩は、越後国蒲原郡(現在の新潟県五泉市村松)に置かれた三万石の藩で、藩主は堀家、村松の地に陣屋を構えて越後の一角を治めました。周囲を大藩や天領に囲まれた、北国の小さな大名家でした。

同盟に殉じた村松藩

戊辰戦争において村松藩は、東北・北越の諸藩が結んだ奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦いました。長岡藩などとともに北越戦争の激流に身を投じ、同盟の一員として戦いましたが、八月四日の落城後、勤王派がただちに新政府へ降伏しました。小藩ながら義を重んじて戦った、その姿が語り継がれています。

村松七士と、奥羽越列藩同盟の五藩

村松藩の幕末は、藩の中で意見が割れたまま戦争に入るという、いちばん苦しい形をたどりました。

七人が処刑された

慶応三年(1867年)、尊王を藩主に勧めた藩士七人が処刑されます。村松七士事件と呼ばれ、住吉神社には「村松七士之碑」が建っています。この一件で藩論は二つに割れました。新潟県の紹介する資料も、守旧の側と勤王の側の対立から七人が処断され、藩論を二分する結果になったと記しています。

それでも村松藩は旧幕府側に立ちます。領地が会津藩領に接していたためです。奥羽越列藩同盟に加わった越後の五藩、すなわち新発田・村上・村松・三根山・黒川の一つとなりました。

加茂の軍議と、八月四日の落城

慶応四年(1868年)五月十四日、村松藩は長岡藩を助けるために出兵します。ところが長岡城が落ちたあとの加茂の軍議で、河井継之助から旧幕府軍への忠誠を疑われました。軍議に出ていた田中勘解由は、その場で自決を図ったと伝わります。のちの赤坂の戦いでは、継之助に「村松藩では隊長以上の戦死者がいない」と言われ、自殺のような戦死を選んだ者も出たといいます。疑われながら戦う、というのがこの藩の立場でした。

八月四日、村松城が落ちます。城下は焼け、会津・桑名の藩士が火を放って退いたとする説と、藩みずから火をかけたとする説があります。藩主らは米沢へ逃れましたが、勤王の側にいた近藤安五郎がただちに新政府へ降伏したため、所領は安堵され減封も免れました。明治元年十二月七日に十一代の直賀が隠居処分となり、末子の直弘が立てられます。

本姓は奥田

村松の堀家は、本姓を奥田といいます。明治十年(1877年)前後に旧姓へ復し、以後は奥田を名乗りました。そのため明治十七年(1884年)七月に子爵を授けられたのは、最後の藩主である直弘ではなく、長男の奥田直暢です。直弘は大正八年(1919年)まで生きています。

石高は三万石ですが、新開の分を加えた実高は四万石ほどに達していました。城主格になったのは嘉永三年(1850年)です。村松城跡は文化財の指定を受けていませんが、城跡公園として整えられ、五泉市の郷土資料館が置かれています。嘉永の大改修のあとに作られた「村松城城郭図及び南御殿の図」は、五泉市の有形文化財です。廃藩後は村松県となり、明治四年十一月に新潟県へ編入されました。越後高田藩のように新政府軍の先鋒を務めた藩とは、まったく逆の側に立った藩でした。

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