【藩名】
松代藩(川中島藩)
【説明】
元和8年(1622年)に信州上田藩より「真田信之」が13万石で入封しました。明暦4年(1658年)に3代「真田幸道」の相続時に沼田領3万石を分与し、以後10万石として幕末までこの松代をは真田家が統治しました。

幕末期には8代「真田幸貫」が老中として幕政に関与します。幸貫は「寛政の改革」を主導した「松平定信」の実子で真田家に養子として入りました。幕末には蘭学者の「佐久間象山」を登用しました。
幸貫の死後、9代「真田幸教」は、ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場の警備を務めたことで、藩財政は破綻寸前となりました。
安政2年(1855年)には先代幸貫が計画した藩校「文武学校」を開校しました。元治元年(1864年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられ藩兵を率いて上洛し、長州藩と幕府の間で「禁門の変」が起こると参内して朝廷の守りにつきました。
幕末時の松代藩は早くから倒幕で藩論が一致しており、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられました。戊辰戦争時の藩主は「真田幸民」で、新政府軍に参加して多大な軍功を挙げました。これにより新政府から賞典禄3万石を加増されました。
明治2年(1869年)、版籍奉還により幸民は松代藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」にて松代藩は松代県となり、その後、長野県に編入されました。
松代藩をもっと深く——一人の師から、戦争の両側が出た
幸村の兄の家
松代の真田家は、真田信繁(幸村)の兄・信之の家系です。関ヶ原で父と弟が西軍につき、信之ひとりが東軍に残りました。あの日の選択によって、真田の名は幕末まで、そして華族として近代まで続きました。
十万石。信濃では最大の藩です。ただしこの藩の名を幕末史に刻んだのは、藩主でも石高でもなく、一人の家臣でした。
佐久間象山という異物
佐久間象山は松代藩士です。朱子学から出発し、藩主の命で洋学に転じ、砲術・電信・ガラス製造・医学へと際限なく手を伸ばしました。嘉永二年には松代で電信の実験を行っています。日本で最初期の試みとされます。
彼が掲げた「東洋道徳、西洋芸術」——精神は東洋のまま、技術は西洋に学べという主張は、その後の日本の近代化の方針をほとんど言い当てています。
門下生の名簿を見る
象山の塾に集まった人間の顔ぶれが、この藩の異様さを物語ります。
| 門下 | 戊辰戦争での立場 |
|---|---|
| 吉田松陰 | 長州藩。松下村塾を開き、討幕派の源流に |
| 勝海舟 | 幕臣。江戸無血開城を実現 |
| 橋本左内 | 福井藩。安政の大獄で刑死 |
| 河井継之助 | 長岡藩。武装中立を掲げて新政府軍と戦う |
| 山本覚馬 | 会津藩。のち京都府顧問、同志社の創立に関わる |
坂本龍馬も一時その門に学んだと伝えられます。討幕を説いた者と幕府を支えた者、そして最後まで抵抗した者が、同じ師のもとで机を並べていました。象山が教えたのは思想ではなく方法だったからでしょう。同じ道具を渡された弟子たちは、それぞれ違う結論に達し、やがて撃ち合いました。
弟子の密航に連座して、九年
嘉永七年、吉田松陰が下田でアメリカ艦への密航を企てて失敗します。この計画をそそのかしたとして、象山も捕らえられました。松代へ送り返され、蟄居の身となります。その期間、およそ九年。
日本がもっとも激しく動いた時期のはじめの九年間を、象山は信濃の谷で書物を読んで過ごしました。
木屋町の暗殺
元治元年、赦されて京都へ出た象山は、開国と公武合体を説いて回りました。彦根への遷都まで唱えたといいます。攘夷派から見れば許しがたい言説です。
その年の七月、三条木屋町で象山は斬られました。白昼、馬上での暗殺でした。日本の近代化の設計図を最も早く描いた人物が、その設計図ゆえに殺されました。
松代に残るもの
松代藩は戊辰戦争では新政府側につき、北越へ出兵して、かつての同門である河井継之助の長岡藩と戦っています。師が九年を過ごした町の兵が、兄弟弟子の藩を攻めました。
いまの松代には、藩校文武学校、真田邸、象山神社が残ります。城下町の規模がそのまま保たれた、全国でも数少ない町です。近くの山腹には、昭和二十年に掘られた巨大な地下壕があります。この山の名が「象山(ぞうざん)」で、佐久間象山の号はここから採られました。西洋の技術を最初に学んだ人の名の山に、最後の戦争の穴が掘られています。
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