三国峠の戦いとは?17歳の町野久吉が霧の中へ—会津藩百数十人が上州諸藩を迎え撃った国境の峠を図解でわかりやすく

上州(いまの群馬県)と越後(いまの新潟県)の国境に、三国峠があります。慶応4年(1868)閏4月、この峠をはさんで、会津藩のわずか百数十人と、上州の諸藩を中心とする新政府軍がぶつかりました。

峠の陣を守った会津藩の隊長は町野源之助(のちの町野主水)。その弟で17歳の町野久吉は、濃い霧の中、槍を手に敵の真ん中へ斬りこんでいきます。これが越後口の最初の戦いのひとつ「三国峠の戦い」です。この記事では、峠の攻防を進軍図とイラストで解説します。

大木で道をふさぎ峠に陣を築く会津藩兵のイメージ
大木で道をふさぎ、大般若塚に陣を築く会津藩兵と農兵(イメージ図)
目次

三国峠の戦いとは?ひとことで言うと

会津へ攻めこむ道を開こうとした上州諸藩の新政府軍が、三国峠の大般若塚に陣を敷いた会津藩兵を三方から攻め、峠を越えて越後へ追い落とした戦いです。

日時 慶応4年閏4月21日〜24日(1868年6月11日〜14日)。本格的な戦いは23日・24日
場所 上野国と越後国の国境・三国峠の大般若塚のあたり(現在の群馬県みなかみ町と新潟県湯沢町の境)
会津方 会津藩の町野源之助隊。藩士20人あまりと地元の農兵など130〜140人ほど(200人あまりとする説もある)
新政府軍 前橋藩・高崎藩・吉井藩・佐野藩などの約600人。うしろに控えた沼田藩などを合わせると1200〜1500人ともいわれる
戦死者 記録に残るのは、会津藩士4人(町野久吉ら)、新政府軍3人
結果 新政府軍の勝利。会津藩兵は浅貝宿・二居宿を焼いて小出島へ退いた

なぜ三国峠で戦いが起きたのか

会津藩が守っていた魚沼

幕末の越後・魚沼郡は、大部分が幕府の領地でした。その中に会津藩の領地や、幕府から会津藩が預かった土地がまじり、小出島の陣屋を中心に会津藩の兵が守っていました。

4月に江戸城が明け渡されると、新政府軍は会津攻めに向けて動き出します。会津藩は、関東から三国街道を北上してくる新政府軍を迎え撃つため、郡奉行の町野源之助を隊長に、国境の三国峠に陣を置くことを決めました。

大般若塚の陣

閏4月9日から12日にかけて、町野源之助は弟の久吉、池上武輔ら藩士20人あまりと、陣屋や庄屋を通して集めた農兵や侠客を率いて、峠の上州側にある大般若塚に陣を敷きました。道には大木を切り倒して置き、柵をめぐらせて、敵の進軍をはばみます。

浅貝宿にいたあいだには、信州の山を越えてきた小栗上野介の家臣たち、佐藤銀十郎ら10人あまりが源之助を訪ね、そのうち数人が隊に加わっています(佐藤銀十郎)。ただ、しばらく上州側に動きがなく、田植えの季節でもあったため、農兵の一部は村へ帰されていました。

上州の諸藩が北へ

一方、上州の諸藩は、すでに新政府に従っていました。閏4月22日、東山道軍の軍監・原保太郎と豊永貫一郎が、前橋藩・高崎藩・吉井藩・佐野藩などの約600人を率いて、峠の手前の永井宿に着きます。うしろの須川宿や沼田城には、沼田藩・安中藩・伊勢崎藩・七日市藩の兵も控えていました(沼田城・沼田藩)。

米俵を槍で突き上げる町野久吉のイメージ
永井宿の本陣で米俵を槍で放り投げた町野久吉(イメージ図)

その前日、町野久吉はわずかな供を連れて永井宿の本陣を訪れ、「官軍を決して泊めないように」という兄の伝言を伝えたといいます。そのとき久吉は、積んであった米俵に槍を突き刺し、頭の上を越えて後ろへ放り投げてみせたと伝わります。宝蔵院流の槍の使い手でした。

両軍の顔ぶれと兵力

会津方

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
会津藩 松平家
23万石
町野源之助隊。藩士20人あまりと地元の農兵・郷村兵で大般若塚を守った

新政府軍

部隊 大名家・石高 この戦いでの動き
前橋藩 松平家
17万石
道案内をつとめ、豊永貫一郎の本隊とともに三国街道の本道を進んだ
高崎藩 大河内松平家
8万2千石
200人。永井宿の裏山・唐沢山を通って山側から攻めた
吉井藩 鷹司松平家
1万石
佐野藩とあわせて180人で、谷側の法師から攻めた
佐野藩 堀田家
1万6千石
24日の総攻撃の始まりを告げる砲撃をおこなった
沼田藩など 土岐家
3万5千石
安中藩・伊勢崎藩・七日市藩とともに、後方の須川宿や沼田城に控えた

両軍の条件を比べる

会津方 新政府軍
兵力 百数十人。農兵の一部は村へ帰っていた 約600人。後方を合わせると1200人以上
地の利 峠の上の高地に陣を構え、道を大木でふさいでいた けわしい坂を登って攻めなければならない
兵の質 藩士は少なく、多くは地元で集めた農兵 上州の藩兵。数で押せた
天気 23日は雨で戦いが中断。24日は夜明けから濃い霧

戦いの流れ

三国峠の戦いの進軍図
三国峠の戦いの進軍図(古地図風・イメージ)

閏4月23日:三方からの攻撃と雨

閏4月21日、新政府軍の先発隊が大般若塚に近づこうとしましたが、道には大木が切り倒されていて進めませんでした。

23日、新政府軍は三方から攻めかかります。高崎藩の200人は永井宿の裏山・唐沢山から山側を、吉井藩と佐野藩の180人は谷側の法師から、豊永貫一郎の本隊200人は前橋藩の案内で三国街道の本道を進み、大般若塚に銃弾を浴びせました。会津方は高い場所に陣取って撃ち返し、農兵たちも石を投げて応戦します。この日の戦いは、雨のため途中で止まりました。新政府軍はその夜のうちに、道をふさいでいた木の一部を取りのぞいています。

雨の中で峠の陣を攻める新政府軍のイメージ
雨の中、三方から大般若塚を攻める新政府軍(イメージ図)

閏4月24日:濃霧の中の突撃

24日の夜明け前、濃い霧の中、佐野藩の砲撃を合図に新政府軍が総攻撃を始めました。会津方は前日の戦いのあと、峠の向こうの三坂茶屋まで下がっていたため、不意を突かれた形になります。

敵の数を見た町野源之助は、いったん退いて小千谷か小出島で守りを固めようと考えました。しかし弟の久吉は「会津武士に退くという言葉はない」と強く反対します。そして兄が止めるのも聞かず、5人の若者とともに霧の中を新政府軍の中へ突っこんでいきました。

霧の中へ駆け出す町野久吉と若い会津藩士のイメージ
兄の制止をふりきり、霧の中へ駆け出す町野久吉たち(イメージ図)

久吉は蒲生氏郷から伝わったという大身の槍をふるって前橋藩の隊まで迫りましたが、銃で撃たれ、取り囲まれて戦死します。17歳でした。前橋藩の砲術の指南役で、久吉と同じ年ごろだった亀岡泰辰は、のちの大正9年(1920)、「その勇気は賞賛するに余りある」と回想しています。

午後:会津方の撤退

会津方は午後まで持ちこたえましたが、数の差はどうにもならず、やがて総崩れになって峠を下りました。新政府軍では、吉井藩の農民出身の兵・善吉が先頭に立って大木の柵を壊しながら道を開き、隊長をかばって撃たれ戦死しています。

記録に残る戦死者は、会津藩士が町野久吉・好川瀧之助・古川深次郎・湯浅六弥の4人。新政府軍は高崎藩の深井八弥、佐野藩の伊島吉蔵、吉井藩の吉田善吉の3人でした。

戦いのあと

焼かれた宿場、焼かれなかった宿場

退く会津藩兵は、追っ手を遅らせるため、三国街道の浅貝宿と二居宿に火を放ちました。住民は山に逃げていたため、火事で命を落とした人はいなかったといいます。

その先の三俣宿は焼かれませんでした。北陸道の新政府軍が十日町まで迫っていたため、撤退を急いだからともいわれます。一方で、宿の庄屋と本陣の主人が白装束で街道の真ん中に座り、自分たちの命と引きかえに村を助けてほしいと訴えたため、という言い伝えも残っています。

峠を下りて退く会津藩兵と村を守ろうとする庄屋のイメージ
退く会津藩兵と、白装束で村を守ろうとした庄屋たち(イメージ図)

越後口の戦いへ

会津藩兵は小出島へ退き、新政府軍は六日町まで進みました。このあと越後では、閏4月26日の小出島の戦い、27日の鯨波の戦いと戦いがつづき、5月からは長岡藩を巻きこんだ北越戦争へと広がっていきます(鯨波の戦い・長岡戦争)。

兄の町野源之助は、こののち会津若松城の籠城戦を戦い抜き、明治のあとも会津で生きて「町野主水」の名で知られるようになりました(会津若松城の籠城戦)。

久吉の墓

久吉ら会津藩士の首は永井宿にさらされたのち、見かねた村人によって遺体とともにひそかに葬られました。場所は長いあいだ伏せられていましたが、のちに古老の話をもとに桜の木の根元から遺骨が見つかり、昭和35年(1960)、久吉の甥にあたる町野武馬が永井に墓を建てています。魚沼市の小出島陣屋跡には、明治29年(1896)に三国峠の戦没者の名も刻んだ慰霊碑が建てられました。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

三国峠の戦いは、数で見れば勝負になっていません。百数十人で、しかも多くは地元の農兵。対する新政府軍は後方を含めれば千人を超えます。それでも会津藩は国境の峠に陣を構え、雨の一日をしのぎました。けわしい峠という地形が、それだけ守る側に味方したということでしょう。

心に残るのは、やはり町野久吉です。兄は退いて態勢を立て直そうとし、弟は「退くという言葉はない」と霧の中へ飛びこんだ。どちらが正しかったかは簡単には言えません。ただ、敵だった前橋藩の同年代の若者が、50年以上たってもその勇気を忘れずに書き残したことに、この戦いの重さがあらわれている気がします。

もう一つ忘れたくないのが、峠のふもとの人々です。農兵として駆り出され、宿場を焼かれ、白装束で村を守ろうとした庄屋もいた。上州の側では、沼田藩のように会津と縁の深い藩が新政府軍として峠に向かいました。国境の峠の一日には、それぞれの立場で揺れた人々の姿が重なっています。

現地を歩く ― 三国峠の戦いの史跡

  • 大般若塚(群馬県みなかみ町):会津藩が陣を敷いた場所。三国峠の上州側にある
  • 三国峠:上州と越後の国境の峠。峠には三国権現の社がある
  • 永井宿と町野久吉の墓(群馬県みなかみ町永井):新政府軍が陣を置いた宿場。久吉の墓がある
  • 小出島陣屋跡(新潟県魚沼市):会津藩の陣屋跡。三国峠の戦没者の名を刻んだ慰霊碑がある
  • 沼田城跡(沼田公園)(群馬県沼田市):新政府軍が進駐した沼田藩の城
沼田城の本丸堀跡
沼田城の本丸堀跡。三国峠へ向かう新政府軍が進駐した沼田藩の城(筆者撮影)
沼田城天守の案内板
「沼田城天守」の案内板(筆者撮影)

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参考にした資料

  • Wikipedia「三国峠の戦い」

文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。写真は沼田城跡

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