前橋藩/松平家17万石:松平直克 大政奉還後の戊辰戦争ではいち早く新政府に恭順した前橋藩

目次

前橋藩の歩み

幕末になって時の川越藩主「松平直克」に念願の前橋帰城が許されました。足掛け4年におよぶ大規模な築城を経て、慶応三年(1867年)新「【現地取材】前橋城・前橋藩」が完成し、川越藩の石高十七万石をもって前橋藩が再立藩したが間もなく「大政奉還」を経て「王政復古の大号令」となります。

前橋藩/場所・アクセス・地図 松平家17万石:松平直克【幕末維新写真館】

「戊辰戦争」が始まり、徳川慶喜が謹慎すると前橋藩はいち早く新政府へ恭順の意を示したが、飛び地領の上総富津では逆に富津陣屋が旧幕府軍に囲まれて家老が自刃した挙句、後になって新政府からは内通を疑われるという事件が起きています。明治四年(1871年)廃藩置県により前橋県となり、その後、群馬県に併呑されました。

松平大和守家の前橋藩

前橋藩は、上野国(現在の群馬県前橋市)に置かれた十七万石の大藩で、藩主は徳川譜代の名門・松平大和守家でした。かつて利根川の氾濫で前橋城を手放して川越へ移っていた同家が、幕末に前橋城を再建して帰還した経緯を持ちます。藩主・松平直克は、幕政の要職である政事総裁職を務めるなど、幕末の中央政局にも深く関わりました。

いち早い恭順

大政奉還ののち、前橋藩は戊辰戦争にあたっていち早く新政府への恭順を選びました。譜代の大藩でありながら時代の流れを冷静に読み、家名と領地を守り抜いた判断が光ります。

川越から前橋へ、城を建て直して帰りました

文久三年に幕府から前橋城の再築と帰城を許され、十二月に着工して慶応三年に完成しています。願書では川越藩の城が狭く軍事調練のための空地もないことを理由に挙げましたが、実際に工事を支えたのは領民からの献金で、生糸の輸出で潤った商人たちが出した額は七万七千両余にのぼると伝えられます。ただしこの金額は前橋市が公開している資料には出てこず、裏づけの度合いには差があります。城の規模は十五万七千坪余でした。

松平直克は、政事総裁職でした

直克は天保十一年の生まれで、文久三年十月十一日に政事総裁職に就き、将軍家茂に従って上京して朝廷や参預会議と折衝しながら、一橋慶喜とともに横浜鎖港を進めました。ところが元治元年、天狗党の乱を武力で討つことに反対して老中たちと対立し、六月二十二日に職を解かれています。下仁田で天狗党と戦った藩の一覧に前橋の名がないのは、このころ藩がまだ川越にあり、前橋城を建てている最中だったためです。

上総富津で、家老が腹を切りました

前橋藩は慶応三年三月から上総の富津陣屋の警衛を任されていましたが、慶応四年閏四月三日、請西藩主・林忠崇が脱藩して挙兵し、遊撃隊や撒兵隊とともに富津陣屋を囲みます。老臣の小河原多宮政徳は歩兵二十三人と大砲六門、小銃十挺、金五百両を渡したうえで、その夜のうちに責任を取って切腹しました。六月に陣屋は前橋藩の手へ戻りますが、今度は新政府軍が内通を疑い、六月十一日に町奉行兼勘定奉行の白井宣左衛門を呼び出して詰問し、白井は翌十二日の朝に陣屋で自刃しています。藩としての処分を記した資料は見あたらず、むしろ明治元年十二月二十五日に藩主が小河原の遺族へ墓表料五十両を与えました。

城跡は、いま県庁です

本丸の跡には群馬県庁が建っています。明治四年の廃藩置県のあと本丸御殿が県庁舎に使われ、昭和三年に取り壊されました。県警本部の北側の土塁の上に前橋城址之碑が立ち、大手町二丁目には前橋市指定史跡の車橋門跡の石積みが二基残っています。

最後の前橋藩主は、松平直克ではありません

廃藩置県を迎えたのは、養子の直方でした

前橋藩といえば松平直克の名で語られますが、藩を最後まで預かったのは直克ではありません。ブリタニカ国際大百科事典は「直克の次の直方の代に廃藩置県となった」と書いています。

直方(なおかた)は安政五年(1858年)八月二十八日生まれ。明治二年(1869年)八月十七日に直克が隠居し、八月二十五日に前橋藩知事に就きました。そして明治四年(1871年)七月十四日の廃藩置県で知藩事の職を免ぜられます。在任はおよそ一年十一か月、しかも十代なかばの少年です。政事総裁職まで務めた直克の陰で、この最後の二年はほとんど語られません。

華族の爵位についても整理しておきます。前橋松平家は伯爵家ですが、直克本人は伯爵ではありません。直克について確認できるのは明治三十年(1897年)一月に正三位に叙されたことだけで、同月二十五日に五十八歳で亡くなっています。直方は明治十六年(1883年)に松平基則へ家督を譲っており、華族令当時の当主が叙爵者と考えられますが、その年月日までは確認できません。「前橋の松平は伯爵家」と「直克が伯爵になった」は、別の話です。

官営富岡より二年早い製糸所が、この藩から出ています

前橋藩には、幕末の城普請と地続きの事業がありました。藩営前橋製糸所です。

前橋市の説明はこう書いています。明治三年(1870年)六月、日本で最初の洋式器械製糸所である「藩営前橋製糸所」を創設。手がけたのは藩士の深沢雄象(ふかさわゆうぞう)と速水堅曹(はやみけんそう)で、スイス人のミューラーから技術を学びました。市は直克について「藩財政の鍵を生糸に見出し」とも書いています。前橋城の再築費を生糸商人の献金が支えたのと、まったく同じ発想の延長線です。

そして前橋市は「実は富岡製糸場ができる二年前、すでに前橋には製糸所がつくられている」と明記しています。官営富岡製糸場の操業開始は明治五年(1872年)ですから、たしかに二年早い。城を建て直すために領民から金を集めた藩が、廃藩の一年前に器械製糸へ踏み出していたわけです。跡地には記念碑が立っています。

ただし「日本一の生糸の町」という言い方は、前橋市の公式サイトには出てきません。市が使うのは上毛かるたの読み札「県都前橋生糸の市(けんとまえばしいとのまち)」で、説明は「前橋は全国でも一、二をあらそう生糸が集まる場所になった」です。「日本一」ではなく「一、二をあらそう」。いっぽう「日本最初の洋式器械製糸所」のほうは市の公式が明記していますので、こちらは自信をもって書けます。ミューラーを招いた年は、市・県のどちらの公式にも見つけられませんでした。

城跡そのものには、史跡の指定がありません

本丸跡に群馬県庁が建っているという話には、その先があります。「前橋城跡」という名前での史跡指定が存在しないのです。

前橋市の指定文化財一覧で城に関わるのは前橋城車橋門跡(大手町二丁目、指定は昭和三十九年十二月二十二日)と前橋藩主酒井氏歴代墓地の二件で、城跡本体は挙がっていません。城跡の中枢が県庁の敷地になっているためでしょう。車橋門跡は慶応三年(1867年)に復興された渡りやぐら門の跡で、対になった石積みの台石は一辺七・七メートル×四・二五メートル、高さ一・四メートルあります。幕末に建てた門の土台だけが、市の史跡として残っているという形です。

前橋市は前橋城を「古くは厩橋(うまやばし)城と呼ばれ、『関東の華』と称された」と紹介しています。城に関わる市指定文化財は物のほうが充実していて、松平家奉納の能装束一式・陣羽織・軍配(いずれも昭和六十二年六月二十四日)、松平大和守家の甲冑(平成二十四年三月十五日)、直矩筆の菊図と妙法蓮華経(平成二十五年三月十九日)、酒井家の前橋城絵図ほか(平成二十八年三月十五日)が指定されています。城は残らず、藩主の持ち物が残った藩です。→ 川越藩

東照宮が前橋へ移ったのは、帰城の年ではありません

前橋公園の一角にある前橋東照宮は、松平大和守家の移動にそのまま付いて動いた神社です。神社の説明では寛永元年(1624年)、松平直基が幕府から最初に与えられた越前勝山で創建されました。

ここで年代に注意が要ります。神社公式は「明治維新を経て、明治四年に再築されたのでございます」と書いています。慶応三年の帰城と同時ではありません。藩主が先に帰り、神社は廃藩置県の年にようやく建った—という順番です。川越からいつ移されたかを示す公式の記述は見つけられませんでした。

もう一つ、明治の建物として臨江閣があります。前橋市によれば本館は明治十七年九月、群馬県令の楫取素彦や市内の有志の協力と募金で迎賓館として建てられました。別館は明治四十三年、一府十四県連合共進会の貴賓館です。本館・別館・茶室と天皇東宮行幸啓関係資料六冊が、平成三十年八月十七日に国の重要文化財となりました。藩がなくなった十三年後に、県の迎賓館が建った—城を失った前橋が県都として立ち上がる速度が、この年数に出ています。

群馬県は、二度つくられています

廃藩置県のあとが、前橋はやや複雑です。群馬県の公式サイトは「第一次群馬県が成立した明治四年十月二十八日」を県民の日の由来としています。ところがこの第一次群馬県は明治六年六月に入間県と統合されて熊谷県になり、群馬県はいったん消えます。県公式の年表が「1876 第二次群馬県が成立、ほぼ現在の形となる」と書くとおり、明治九年(1876年)に二度目の群馬県ができて今に続きました。

前橋藩から前橋県を経て群馬県へ、という流れは辞典に載っていますが、「前橋県」という県名は前橋市・群馬県の公式サイトでは確認できず、設置の年月日も分かりませんでした。第二次群馬県の成立日も、公式では年までしかたどれていません。城を建て直して帰った四年後に藩が消え、その県すら一度消えて建て直された—前橋という土地は、器を二度つくり直しています。

前橋藩をもっと詳しく

藩の成り立ち:平岩・酒井・松平の三つの時代

前橋藩の始まりは、天正十八年(1590年)に徳川家康の家臣・平岩親吉が三万三千石で封じられたことです(『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』による石高)。慶長六年(1601年)には、酒井家が武蔵川越から同じ三万三千石で入りました。

この酒井家の時代が長く続きます。四代藩主の酒井忠清は、四代将軍徳川家綱のもとで大老として幕政に大きな力を持ち、その治世の終わりごろには石高が十五万石に達しました。酒井家は約百五十年間前橋を治めたのち、寛延二年(1749年)、老中首座となっていた九代藩主の酒井忠恭(ただずみ)が国替えを働きかけ、播磨姫路へ移りました。本文で触れられている「前橋藩主酒井氏歴代墓地」は、この時代の名残です。

入れ替わりに姫路から来たのが、松平大和守家の松平朝矩(とものり)で、石高は十五万石でした。しかし前橋城は利根川による被害が深刻で、明和四年(1767年)に居城を武蔵の川越城に移すことになり、以後この家は川越藩として約百年を過ごします。その後、文久三年(1863年)十一月七日に前橋城の再築と帰城が許され、慶応三年(1867年)二月二日に再築が完成すると、川越藩の十七万石のまま居城を前橋に移しました。

先祖:結城秀康と、移り続けた大和守家

松平大和守家の祖は、徳川家康の次男・結城秀康の子、松平直基(なおもと)です。直基は慶長九年(1604年)三月二十五日に生まれ、元和元年(1615年)に越前勝山で一万石を与えられました。寛永三年(1626年)八月十九日に従四位下・大和守となり、このとき名字を結城から松平に改めています。これが「大和守家」の起こりです。

直基の生涯は国替えの連続でした。寛永元年(1624年)に勝山三万石、寛永十二年(1635年)に越前大野五万石、正保元年(1644年)に出羽山形十五万石、そして慶安元年(1648年)六月に播磨姫路へ移りますが、同じ年の八月十五日に江戸で亡くなりました。四十五歳でした。直基の子孫が姫路から前橋に入るのは、それから百年ほどのちの寛延二年(1749年)のことです。

藩主家の子孫・明治以降

本文にあるとおり、最後の藩主・松平直方は明治十六年(1883年)に家督を譲りました。跡を継いだのは養嗣子の松平基則(もとのり)で、松平典則の三男として生まれた人です。基則は明治十七年(1884年)の華族令で伯爵となりました。つまり前橋松平家で最初に伯爵となったのは基則ということになります。基則は明治四十年(1907年)に隠居し、姉の夫にあたる直之に家督を譲りました。昭和五年(1930年)に五十五歳で亡くなっています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の十七万石のこの藩はおよそ四千人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「前橋藩」「松平直基」「松平基則」

場所・アクセス・地図

前橋の現地を歩いた記録

前橋藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

関東の藩一覧(幕末) ›

  • URLをコピーしました!
目次