佐野藩の歩み
唐沢山城を統治していた「佐野房綱」は豊臣秀吉に仕えていたが、ほどなく死去し、その跡を養子の「佐野信吉」が継ぎました。しかし、信吉の代に佐野氏は徳川幕府より改易されてしまいます。堅城を誇る唐沢山城を持つ佐野氏をどうにかして改易したかったものと考えられています。

その後、佐野領は幕府直轄地(天領)となるが、5代将軍「徳川綱吉」の時代に大老「堀田正俊」の三男「堀田正高」が、正俊の遺領から下野都賀郡、安蘇郡のうちの一万石をもって分家し、佐野に城地を定め佐野藩が再藩しました。
しかし、正高は近江堅田へ移封され再び佐野藩は廃されて幕府領となりました。正高から4代後の「堀田正敦」が再び近江堅田より佐野の地に戻されて佐野藩が再興し以後は堀田氏の支配で明治維新に至りました。幕末時には慶応四年(1868年)四月四日、新政府軍に武器を献上しいち早く恭順したことで家名を保ちました。
下野佐野の堀田家
佐野藩は、下野国(現在の栃木県佐野市)に置かれた一万六千石の藩で、藩主は堀田家でした。堀田家は、老中を輩出した佐倉藩堀田家につらなる家柄で、文政九年(1826年)に佐野に陣屋を構えた藩です。
武器を献じて恭順
戊辰戦争において佐野藩は、新政府軍に武器を献上するなどして恭順の姿勢を示し、家名を保ちました。小藩ゆえに大きな軍事的役割こそ担いませんでしたが、進んで新政府に協力することで、動乱の時代を無事に乗り切ったのです。時流を見極めた小藩の身の処し方を示しています。
「幕末に立藩」ではない—文政九年の陣屋再興
佐野藩については、幕末に新しく立てられた藩という説明を見かけることがあります。実際には、堀田家が佐野に拠点を構えたのは幕末より四十年あまりさかのぼる文政九年(1826年)のことでした。近江の堅田から本拠を移し、佐野の植野に陣屋を再興したのが始まりです。石高は当初1万3千石で、文政12年(1829年)に3千石を加えられて1万6千石となりました。
「再興」という言い方をするのは、佐野にはかつて佐野氏の城があり、江戸の初めに廃されていたからです。堀田家は、二百年あまり空いていた土地に陣屋を置き、一度は消えた佐野の名を大名の家名として復活させたことになります。
十三歳で家督を継いだ最後の藩主
幕末の藩主は堀田正頌です。天保十三年(1842年)に生まれ、安政元年(1854年)に十三歳で家督を継ぎました。ペリー来航の翌年であり、幕府が海防に追われ始めた時期です。以後の十四年、正頌は小藩の当主として中央の激動を見続けることになります。
慶応四年(1868年)四月、鳥羽伏見の戦いから三か月あまりで、佐野藩は新政府へ武器を献上しました。関東の小藩にとって、旧幕府方につくか新政府につくかは家の存亡に直結します。武器を差し出すという行動は、恭順の意思をもっともわかりやすい形で示すやり方でした。この判断が早かったことで、佐野藩は戦火を被らずに明治を迎えます。
明治二年(1869年)の版籍奉還で正頌は藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で免官されました。藩は佐野県となり、まもなく栃木県に編入されます。明治十七年(1884年)の華族令では子爵を授けられ、明治二十九年(1896年)に亡くなりました。
陣屋の名残と藩校
陣屋があった一帯は、現在の佐野市の市街地にあたります。佐野城址公園には佐野城墟の碑が建ち、堀田家の時代を伝えています。藩校としては観光館の名が伝わりますが、これを記すのは今のところ百科事典の記述で、開設の年もはっきりしません。一万六千石という規模では、藩校の記録が残りにくいのも無理のないところです。
佐野城とこの藩の歩みについては、現地取材の記事でも城跡の様子をあわせて紹介しています。
佐野藩をもっと詳しく
佐野氏の改易:秀吉の奉行の子が継いだ家
佐野氏の最後の当主・佐野信吉は、もとは豊臣秀吉の奉行衆だった富田一白(長家)の五男です。天正二十年(1592年)に佐野房綱の養子となって佐野氏を継ぎ、佐野城を築いて城下町をつくりました。佐野氏の所領はおよそ三万九千石とされます。
慶長十九年(1614年)七月、信吉は改易されました。理由としては、伊予宇和島藩主だった兄・富田信高の改易に巻きこまれたこと、江戸の火事の際に許しなく江戸へ向かったことを咎められたこと、親戚関係にあった大久保忠隣や大久保長安の事件に連座したことなどが挙げられています。信吉は信濃松本藩主の小笠原秀政に預けられ、元和八年(1622年)に許されて江戸へ移った同じ年に亡くなりました。
堀田家が来るまで
佐野氏が去ったあとの佐野は幕府領となり、一時は本多正純の支配を受けたのち、ふたたび幕府の直轄に戻り、やがて複数の藩や旗本の領地に分けられました。貞享元年(1684年)に堀田正高が父・堀田正俊の遺領から一万石を分けられて佐野に入りましたが、元禄十一年(1698年)に近江堅田へ移ると、佐野の陣屋は荒れはててしまいました。
佐野へ戻した藩主・堀田正敦
文政九年(1826年)に佐野へ陣屋を移した堀田正敦は、宝暦五年(1755年)に仙台藩六代藩主・伊達宗村の八男として仙台で生まれた人です。天明六年(1786年)に堅田藩主堀田正富の婿養子となり、翌年に藩主を継ぎました。寛政二年(1790年)には松平定信に引き立てられて若年寄となり、四十二年という長いあいだその職にありました。
正敦は、大名・旗本の家系をまとめた『寛政重修諸家譜』の編纂で総裁を務めたことで知られ、鳥類の図鑑『観文禽譜』をまとめた博物学者でもありました。実家の仙台藩で藩主が若くして亡くなったときには、叔父として跡継ぎ問題に関わり、後見役を務めています。
石高は、文化三年(1806年)の加増で一万三千石となり、佐野へ陣屋を移したあとの文政十二年(1829年)にさらに三千石を加えられて一万六千石になりました。正敦は天保三年(1832年)に隠居し、同じ年に七十八歳で亡くなっています。
参勤交代をしない「定府」の大名
佐野の堀田家は、江戸に常に住む「定府」の大名で、参勤交代で国元と江戸を行き来することはありませんでした。若年寄として長く幕府に勤めた正敦の家らしい形といえます。
藩の終わり
明治四年(1871年)の廃藩置県で佐野藩は佐野県となり、その後栃木県に入りました。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、一万六千石のこの藩はおよそ三百八十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「佐野藩」「佐野信吉」「堀田正敦」など
場所・アクセス・地図
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佐野の現地を歩いた記録
佐野藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。


