吉田東洋とは何をした人物か—長宗我部旧臣の家から参政へ。『海南政典』と新おこぜ組、後藤・板垣・岩崎を育てた改革者の最期

雨の夜の高知城下、吉田東洋暗殺(イメージイラスト)

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吉田東洋(よしだ とうよう)は、幕末の土佐藩で参政として藩政改革を進めた人物です。名は正秋、東洋は号。山内容堂に抜擢され、法典『海南政典』の編さん、門閥にとらわれない人材の登用、産業の育成などに取り組みました。

東洋のもとで学び、引き立てられたのが、後藤象二郎、板垣(乾)退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎らです。明治の土佐を担った人の多くは、東洋の門から出ています。そして東洋自身は、文久二年の雨の夜、土佐勤王党に斬られました。このページでは暗殺事件そのものより、東洋がどんな家に生まれ、何をしようとした人だったのかをたどります。

目次

吉田東洋とは—先に答え

生没文化十三年(1816年)、高知城下に生まれる。文久二年(1862年)四月八日、暗殺。享年四十七
身分土佐藩の上士。馬廻格二百石の家を天保十二年に継ぐ
家の由来長宗我部の家臣だった吉田氏の流れとされ、山内家の入国後に上士として仕えた
名前名は正秋、通称は元吉・官兵衛、号は東洋
役職船奉行・郡奉行を経て、嘉永六年に大目付・参政。一度罷免され、安政四年の暮れに赦されて参政に復帰
改革『海南政典』、門閥打破、産物の統制による財政再建、藩校文武館の開設
門下後藤象二郎、乾(板垣)退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎ら。「新おこぜ組」と呼ばれた
最期藩主山内豊範への講義の帰り、雨の夜に土佐勤王党の那須信吾らに斬られる

生まれと家—長宗我部の家臣の流れをくむ上士

吉田東洋の肖像
吉田東洋(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

吉田東洋は文化十三年(1816年)、高知城下に生まれました。父は馬廻の上士・吉田光四郎正清で、東洋はその四男です。兄が早く亡くなったため跡継ぎとなり、天保十二年(1841年)に馬廻格二百石の家を継ぎました。

吉田家は、戦国時代に長宗我部元親に仕えた吉田氏の流れだとされます。高知市の案内も、東洋の家を「長宗我部の名将吉田正重より出ているといわれる」と紹介しています。土佐藩では「山内家とともに来た家が上士、長宗我部の旧臣が郷士」と説明されることが多いのですが、吉田家はその例外にあたります。有能な旧臣は、山内家に最初から上士として召し抱えられることがあったのです。

出身がそのまま身分を決めたわけではないこと、そして同じ上士でも家ごとに差があったことは、土佐藩の有名人を身分で分けるとでまとめています。上士と郷士の線が引かれた由来は、姉妹サイト「日本の歴史ガイド」の土佐藩の上士と下士にくわしく書いています。

船奉行から参政へ

天保十三年(1842年)、東洋は船奉行として藩の役につき、まもなく郡奉行に移って民政を担当しました。嘉永六年(1853年)、ペリーが来航した年に、藩主の山内容堂は東洋を大目付、さらに参政(仕置役)に抜擢します。参政は、家老のもとで実際の藩政を動かす役です。

ところが翌年、江戸で酒の席の口論から旗本を殴る騒ぎを起こし、東洋は職を解かれて高知に戻されます。長浜で蟄居することになった東洋は、そこで塾を開き、若い藩士を教えました。この塾に通ったのが、のちの後藤象二郎、乾(板垣)退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎らです。

参政に戻り、改革を進める

安政四年(1857年)の暮れに赦された東洋は、翌年正月から再び参政として藩政を握りました。進めた改革は次のようなものです。

  • 『海南政典』:藩の法令をまとめ直した法典。文久元年(1861年)に脱稿しました。
  • 門閥打破:家柄より能力で人を選び、若手を要職につけました。東洋に引き立てられた若手は「新おこぜ組」と呼ばれます。
  • 財政の立て直し:紙・椎茸・樟脳などの産物を藩が統制し、他国へ出すものに税をかけて、藩の収入を増やしました。
  • 藩校文武館:文久二年に開いた藩校で、のちの致道館です。

東洋の考えは、幕府と朝廷が手を結ぶ公武合体と、国を開いて力をつける開国の立場でした。藩の外に向かって動くより、藩そのものを強くすることを優先したといえます。

勤王党との対立

これに真っ向から反対したのが、武市半平太の土佐勤王党でした。勤王党は藩をあげて尊王攘夷に動くことを求めましたが、東洋は取り合いませんでした。勤王党の顔ぶれは郷士や庄屋が中心で、東洋が引き立てた若手は上士の家の子が中心です。対立は身分の上下というより、まず路線の違いでしたが、その線は結果として上士と郷士の線とも重なっていました。

さらに、東洋の改革は家柄を重んじる門閥派の上士たちの反発も買っていました。東洋は、下の勤王党と、上の門閥派の両方から恨まれる位置にいたことになります。

雨の夜の最期

雨の夜の高知城下、吉田東洋暗殺(イメージイラスト)
雨の夜の高知城下、吉田東洋暗殺(イメージ)

文久二年(1862年)四月八日の夜、東洋は藩主山内豊範への講義を終えて城を下がり、雨のなかを帰る途中、帯屋町で勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵に斬られました。四十七歳でした。事件の流れと、その後の土佐藩の動きは吉田東洋暗殺とはでくわしく書いています。

斬った三人は、いずれも郷士です(那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵)。そして東洋の死から一年半ほどのち、勤王党を裁く大監察の席についたのは、東洋が育てた義理の甥の後藤象二郎でした。東洋の門下からは、のちに大政奉還を建白した後藤、戊辰戦争で兵を率いた板垣(板垣退助とは)、三菱を興した岩崎が出ています。東洋が開いた道は、本人の死後に明治へつながっていきました。

吉田東洋ゆかりの地

高知城1
高知城(撮影:幕末歴史ガイド)

吉田東洋先生記念之地(高知市追手筋二丁目)

追手前小学校の東側の塀沿いに「吉田東洋先生記念之地」の碑があります。昭和三十三年(1958年)に高知市教育委員会が建てたもので、高知市の案内によると、実際に斬られた場所はここから少し南寄りだったとされます。

長浜(高知市)

蟄居中に塾を開いたのは高知市の長浜です。のちの土佐の中心人物たちがここに通いました。

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参考資料

  • コトバンク「吉田東洋」(日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)
  • 高知市「吉田東洋記念之地」
  • 高知県立坂本龍馬記念館「吉田東洋記念之地」
  • 高知市広報「歴史散歩」(東洋の財政改革)
  • 高知市(文武館と致道館)
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