尾関雅次郎【新選組隊士 諸士取調役兼監察 幕末】

提灯を手に夜の京都を巡回する新選組隊士たち
尾関雅次郎
職名 諸士取調役兼監察
出身 大和高取
終焉場所 不明
終焉方法 病没
高取藩士の次男で、壬生浪士組のころから加わった古参です。 行軍の先頭で隊旗を掲げる旗役を務め、非行五か条の建白にも名を連ねました。 箱館まで戦い、明治二十五年まで生きました。
目次

尾関雅次郎をもっと深く—行軍の先頭で旗を持った隊士

新選組の行軍で、いちばん前に立って隊旗を掲げた「旗役」を務めた人です。

高取藩士の次男

天保十五年(1844年。同年十二月に弘化と改元されます)、大和国の高取藩士・尾関家の次男として生まれました。文久三年ごろ、壬生浪士組のころから加わっています。

旗役、そして監察

尾関は旗役として行軍の先頭を任されました。のちに諸士取調役兼監察も務めています。元治元年には、永倉新八らとともに近藤勇の非行を会津藩に訴えた六人の一人になりました。

会津、箱館まで

戊辰戦争では会津戦争で歩兵指図役、箱館戦争で第二分隊の指図役を務め、最後まで戦いました。明治三年に赦されたあとは尾関薫と改名し、明治二十五年二月二十八日に亡くなっています。

晩年の記録

箱館では弁天台場に籠もり、明治二年五月十五日に降伏しました。五稜郭の降伏より三日早い日付です。晩年については、故郷の奈良県高取町で亡くなり、墓は同町の光雲寺にあるとする資料があります。兄の尾関弥四郎も隊士で、池田屋事件の褒賞金の名簿には兄弟そろって名を連ねています。

尾関雅次郎の歩みを年表で

年できごと
弘化元年(1844)大和国高取藩士・尾関文左衛門(雅幸)の次男として生まれる。兄は尾関弥四郎
文久三年(1863)ごろ壬生浪士組に加わる
文久三年八月八月十八日の政変に出動
元治元年(1864)六月池田屋事件には加わっていない
元治元年永倉新八らと、近藤勇の非行を会津藩に訴える建白書に名を連ねる
慶応四年(1868)一月鳥羽・伏見の戦いに加わり、敗戦後に江戸へ戻る
慶応四年会津戦争で歩兵指図役
明治元年〜二年箱館戦争で第二分隊の指図役
明治二年五月箱館で降伏。のちに郷里の高取藩の預かりとなる
明治三年(1870)赦される。尾関薫、のちに泉と名を改める
明治二十五年(1892)二月二十八日死去。数えで四十九歳

尾関雅次郎を読み解く

「旗役」という役目

隊旗を持つ旗役は、行軍のいちばん前を歩きます。京都の町を進む新選組の姿は、町の人の目にいちばんよく触れる場面でした。そこで先頭に立つ役を任されたのですから、尾関は壬生浪士組のころからの古い隊士として、隊の「顔」を預けられていたといえます。戦いの腕だけでなく、見た目や落ち着きも見込まれた役目だったと考えられます。

建白書に名を連ねた重み

元治元年の建白書は、池田屋事件で名を上げたあと、近藤勇のふるまいが隊士を家来のように扱うものになったとして、会津藩主・松平容保に訴え出たものです。連名したのは永倉新八・原田左之助・斎藤一・島田魁・尾関雅次郎・葛山武八郎の六人でした。容保の取りなしで表向きは収まりましたが、六人のうち葛山はのちに切腹を命じられています。局長を訴えるのは、それだけ危うい行いでした。尾関はそのあとも隊にとどまり、監察という隊内の取り締まり役にまで就いています。近藤や土方も、尾関の働きそのものは認めていたと見ることができます。

最後まで戦い、生きのびた古参

鳥羽・伏見の敗戦のあと、多くの隊士が隊を離れました。尾関は会津を経て箱館まで戦い続け、降伏後は郷里の高取藩の預かりとなって生きのびています。文久三年の壬生浪士組のころから箱館まで残った隊士は多くありません。尾関は、新選組のはじめから終わりまでを見届けた一人です。

はっきりしないこと

尾関がどこで亡くなったのか、改名後にどんな暮らしをしていたのかは、確かな記録が見つかっていません。このページの表で「終焉場所」を「不明」としているのはそのためです。

尾関雅次郎をさらに掘り下げる

故郷・高取が天誅組に攻められた月

尾関の生まれた高取藩は、大和国(いまの奈良県)の小さな藩で、山の上に築かれた高取城で知られています。文久三年八月、尾関が壬生浪士組の一人として八月十八日の政変に出動していたころ、故郷の高取では大きな事件が起きていました。尊王攘夷を掲げて大和で兵を挙げた天誅組が、高取城を攻めたのです。高取藩はこれを退けました。

京都では長州藩と尊攘派の公家が御所から追われ、大和では尊攘派の挙兵が藩兵に打ち払われる。同じ月、尾関の身の回りでは、二つの場所で同じ流れの出来事が起きていたことになります。尾関がこの知らせをどう受け止めたかは伝わっていませんが、尊攘派を取り締まる側に立った彼の選択と、故郷の藩の立場は重なっていました。

建白書に名を連ねた六人のその後

元治元年、近藤勇の振る舞いを会津藩に訴えた六人は、その後まったく違う道を歩みました。

隊士その後
永倉新八江戸で近藤と袂を分かち、靖兵隊へ。大正四年まで生き、回顧録を残す
原田左之助永倉とともに離れ、慶応四年の上野戦争で傷を負って没したとされる
斎藤一会津に残って戦い、のち警視庁に勤める。大正四年没
島田魁箱館まで戦い、明治三十三年に京都で没
尾関雅次郎箱館まで戦い、明治二十五年没
葛山武八郎建白ののち、元治元年九月に切腹

訴えを起こした六人のうち、責めを負って命を落としたのは葛山ただ一人でした。古参の幹部たちは処分を免れ、その後も隊にとどまっています。尾関も箱館まで戦い抜いた一人です。近藤に意見した隊士が、そのあとも最後まで隊とともにあったという事実は、建白が「反乱」ではなく、隊を正そうとする訴えだったことをうかがわせます。

「古参」であることの重み

文久三年の壬生浪士組は、はじめ二十数人の小さな集まりでした。そこから隊士が数百人に増えるなかで、はじめからいた者は自然と隊の柱になっていきます。旗役や監察という、隊の顔と目にあたる役を尾関が任されたのも、その古さゆえでしょう。

ただ、古参であることは、隊の揉めごとに深く巻きこまれることでもありました。芹沢鴨の一派の粛清、建白書、伊東甲子太郎の分離—尾関はこうした出来事をすべて隊の内側から見てきたはずです。彼が回想を残していれば、新選組の姿はもっとはっきりしていたかもしれません。

尾関雅次郎と関わりの深い人たち

尾関雅次郎のゆかりの地

参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、新選組の名簿類、Wikipedia「尾関雅次郎」。

新選組をもっと知る本

尾関は隊の事務を支えた側の隊士です。斬り合いの場面ばかりが語られがちな新選組像を広げるのに、永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は向いています。

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