山崎烝【新選組隊士 助勤 幕末】

山崎烝
職名 助勤
出身 京都
終焉場所 大阪
終焉方法 戦死

新選組の募集に応じてて入隊し探索方に任命されます。
池田屋事件では諜某活動にて活躍します。
その後も監察として活躍するも「鳥羽伏見の戦い」で戦死とも江戸輸送中の富士山丸にて死亡とも言われています。

目次

探索に長けた監察

山崎烝は、大坂の出身で、新選組では監察・諸士調役を務めた隊士です。表立った剣客としてよりも、変装して市中に潜入し敵方の動向を探る密偵(スパイ)としての働きで知られました。池田屋事件の前には、尊皇攘夷派の潜伏先を探る探索活動で大きな役割を果たしたと伝えられます。

船上での最期

鳥羽・伏見の戦いのあと、負傷した山崎は幕府艦・富士山丸で江戸へ搬送される途中に息を引き取り、海に水葬されたと伝えられます。刀ではなく知恵と足で新選組を支えた、影の功労者ともいうべき隊士でした。

山崎烝をもっと深く——池田屋に潜入していなかった探索方

薬屋に変装して池田屋に事前潜入し、階下から合図を送った——新選組の物語でおなじみの場面です。

これは司馬遼太郎の小説の設定で、創作です。

褒賞名簿に、名前がありません

決定的なのがこれです。池田屋事件の褒賞者名簿に、山崎烝の名はありません。

この事件では隊士に一律十両、さらに働きに応じて別段金が出ました。近藤勇が十両+二十両、土方歳三が十両+十三両、沖田総司永倉新八藤堂平助が十両+十両。平隊士でも受け取っています。

その名簿に載っていないということは、当日は屯所に残っていたと推定されます。

ただし、探索そのものは本物です

山崎の仕事は、当日の斬り合いではなくその前にありました。

元治元年五月下旬、山崎丞・島田魁らが、炭薪商「枡屋喜右衛門」の正体が古高俊太郎であることを突き止めています。手口は、宮部鼎蔵の下僕・忠蔵を尾行して所在を割り出すというものでした。

島田魁の日記に、探索メンバーとして山崎の名が入っています。探索の褒賞と、池田屋当日の褒賞は別物なのです。

もうひとつ傍証があります。新選組は当日、近藤隊十名・土方隊十二名・井上隊十二名に分かれて四条から三条の宿をしらみつぶしに調べています。池田屋を事前に特定していたなら、そんな手間も隊の分割も要りません。

「我は新選組の医者なり」

生家は医家または薬種問屋とされます。出身は摂津大坂とも山城とも伝わり、はっきりしません。

京都で隊士を診ていた幕府医師・松本良順から医学を学び、「我は新選組の医者なり」と言って周囲を笑わせたという逸話があります。松本良順は沖田総司の主治医であり、のちに板橋の近藤勇の供養塔の碑文を書いた人でもあります。

武術は香取流の棒術に優れたとされ、実際に使っていたのは長巻ではないかという説もあります。

異例の兼務

文久三年末ごろの入隊。入隊から数か月で上役を任され、のちに隊内では異例の「諸士調役」と「監察」の掛け持ちになりました。

監察方の仕事は、隊士の素行の内偵と、京都市中や諸藩の動向の探索です。芦屋昇が捕縛者の訊問や長州訊問使への随行にあたったように、斬り合いではなく聞き取りと記録の部署でした。

最期も、割れています

慶応四年一月、鳥羽・伏見の戦いで重傷を負ったところまでは共通しています。そこから先が三通りです。

  • 水葬説(通説)——一月十三日の江戸撤退の際、幕府軍艦富士山丸の船上で息を引き取り、紀州沖で水葬された
  • 陸上埋葬説——鳥羽・伏見で銃撃されて死亡し、陸で葬られた
  • 大坂説——隊士・近藤芳助が高橋正意に宛てた手紙に「山崎が重傷を負って大坂八軒家の京屋宅にいたのを確かに見た」「大坂で死んだのかもしれない」とある

三つ目だけが同時代の証言です。そして墓所は特定されていません。水葬という劇的な最期は確定ではなく、諸説のひとつにすぎません。

探索方として名を残した人が、自分の最期については記録を残せませんでした。新選組でいちばん情報を集めた男が、いちばん情報の少ない死に方をしています。

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