2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

池田長発(いけだ ながおき)は、文久三年(1863年)、数え二十七歳で外国奉行に抜擢され、横浜の港を閉じる交渉のためにフランスへ派遣された幕臣です。旅の途中、エジプトのスフィンクスの前で一行が撮った写真は、幕末の日本人の姿を伝える一枚として広く知られています。
ヨーロッパの国力を目の当たりにした池田は、港を閉じることは不可能だと悟り、逆に「開国して西洋に学ぶべきだ」と幕府に説きました。大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順が、フランスと手を結んで横須賀製鉄所の建設に踏み出すのは、池田の帰国の翌年のことです。
池田長発の大河『逆賊の幕臣』での配役は、2026年10月24日の時点ではまだ発表されていません。発表があり次第、この記事に追記します。
池田長発とは?—先に答え
| 読み方 | いけだ ながおき(筑後守) |
|---|---|
| 生没 | 天保八年(1837年)七月二十三日〜明治十二年(1879年)九月十二日 |
| 身分 | 旗本 |
| 何をした人 | 外国奉行として横浜鎖港談判使節の正使となり、フランスに渡りました。鎖港は不可能と判断してパリ約定に調印し、帰国して開国を建言しました |
| 小栗との接点 | 池田が持ち帰った「西洋に学べ」という主張の翌年、小栗はフランスの協力を得て横須賀製鉄所の建設に着手しました |
| 帰国後 | 幕府の方針に反したとして禄を半分に減らされ、蟄居を命じられました |
二十七歳の外国奉行
池田は旗本の家に生まれ、昌平黌で学び、幕府の役職を経験しました。文久三年(1863年)九月、数え二十七歳の若さで外国奉行に任じられます。
このころ、朝廷と攘夷派は幕府に対して強く攘夷の実行を迫っていました。幕府はその場しのぎの策として、開港したばかりの横浜を再び閉じる交渉を諸外国と行うと約束します。その交渉のための使節の正使に選ばれたのが、池田でした。
横浜鎖港談判使節—スフィンクスの前で
文久三年十二月、池田を正使とする一行三十余人は、フランスの軍艦ル・モンジュ号で横浜を出航しました。上海、インドを経てスエズに上陸し、陸路でカイロへ向かいます。このとき一行はギザのピラミッドとスフィンクスを訪れ、写真家アントニオ・ベアトがスフィンクスの前に並ぶ侍たちを撮影しました。羽織袴に刀を差した一行が巨大なスフィンクスを背に並ぶ写真は、いまも幕末の日本人の姿を伝える一枚として知られています。
パリでは、写真家ナダールが池田の肖像写真を撮っています。洋装ではなく、羽織姿のまま写った若い使節の写真は、パリの人々の関心を集めました。
パリ約定と帰国—「港を閉じるのは無理だ」
パリで池田は、フランス政府に横浜を閉じることを申し入れましたが、当然ながら受け入れられませんでした。それどころか、前年に長州藩がフランス艦を砲撃した事件の賠償や、下関海峡の通航の保障を求められます。池田はこれを受け入れるパリ約定に調印しました。
池田は、ヨーロッパの工業力や軍事力を見て、鎖港など不可能だと確信します。そして予定していたイギリスなど他国への訪問を取りやめ、元治元年(1864年)七月に帰国しました。帰国した池田は、むしろ積極的に開国し、留学生を送り、西洋の技術を取り入れるべきだと幕府に建言します。
しかし、攘夷の約束を守るために送り出した使節が「開国」を説いて帰ってきたことは、幕府にとって受け入れがたいものでした。パリ約定は破棄され、池田は禄を半分に減らされたうえ蟄居を命じられます。のちに隠居し、明治十二年(1879年)、満四十二歳で亡くなりました。
池田の帰国と小栗忠順のフランス接近
池田の建言は退けられましたが、その考えは幕府の中で生き続けました。池田が帰国した翌年の慶応元年(1865年)、勘定奉行の小栗忠順はフランス公使ロッシュの協力を得て、横須賀製鉄所の建設に着手します。柴田剛中らがフランスに派遣されて技師や機械を集め、慶応三年(1867年)には徳川昭武がパリ万博に送られました。
「港を閉じに行った使節」が「開国」を説き、その翌年から幕府がフランスと結んで近代化に乗り出す——池田の旅は、幕府の外交が攘夷から近代化へ向きを変える、その境目にありました。横須賀製鉄所については横須賀製鉄所とは、ロッシュについてはロッシュとは何をした人物かで詳しく扱っています。
大河『逆賊の幕臣』と池田長発
池田の使節は、小栗のフランス接近の前段にあたる出来事です。ドラマで描かれるかどうかはわかりませんが、2026年10月24日の時点で配役は発表されていません。
池田長発のゆかりの地
- 井原市(岡山県)。池田家の知行所があった土地で、晩年を過ごしたとされます
- 横浜港(神奈川県横浜市)。使節が出航した港です
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
- 【現地取材】小栗上野介の生まれた場所はどこ?生誕地・神田駿河台の小栗家屋敷跡と横須賀のゆかりの地(ヴェルニー公園の胸像と、烏川の河原から運ばれた記念石。神田駿河台の生誕地)
- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。
小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。
▶ 小栗忠順のゆかりの地を歩く(現地取材)
- 【現地取材】小栗上野介はどこで生まれたか—生誕地・神田駿河台と、横須賀のゆかりの地を歩く
- 【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓 ― 首を取り返した村、雨の権田を歩く
- 【現地取材】小栗上野介をしのぶ四つの場所—権田の本墓、大宮の首塚、雑司ヶ谷の累代墓、横須賀の胸像
- ヴェルニー公園で無料で入れる二つの施設—ヴェルニー記念館とティボディエ邸
- 【現地取材】増上寺を歩く—十四代将軍家茂と和宮が並んで眠る、徳川将軍家の菩提寺
- 【現地取材】勝海舟記念館と洗足池—「富士を見ながら土に入りたい」と願った海舟の別邸跡
- 【現地取材】飯田城を歩く—安政六年の石碑に、小栗忠順の師が文を寄せていた
- 【現地取材】幕府の最高学府・昌平坂学問所を歩く—湯島聖堂と孔子像
- 【現地取材】彦根城を歩く—井伊直弼の十五年と、赤備えが官軍になった日
- 【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く—桜田門外の実行隊長と、討たれた井伊直弼の霊塚
- 【現地取材】佐倉城と堀田正睦を歩く—「老中の城」に立つ、開国に敗れた宰相と義民の里
▶ あわせて読みたい—池田長発と同じ時代の人々
参考資料
鈴木明『維新前夜—スフィンクスと34人のサムライ』、外務省外交史料館「日本外交の礎を築いた人々」、コトバンク「池田長発」、Second Japanese Embassy to Europe (1864)(英語版Wikipedia)。



