| 第ニ丁卯 | |||
| 藩名 | 長州藩 | ||
| 藩主 | 毛利慶親 | ||
| 船種 | バーク船 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 6門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
建造時の仮称は「アソンタ(Assunta)」と称し、イギリスのロンドンで建造れました。慶応4年5月(1868年)、長州藩が購入し「第二丁卯丸」と命名されました。
明治3年(1870年)4月9日に政府に献納され、兵部省所管となり「第二丁卯艦」と改名されました。明治5年(1872年)2月から翌年1月まで測量任務に従事しています。明治8年(1875年)の江華島事件発生の際には、「雲揚丸」や「春日丸」と共に釜山沖に派遣されたが江華島での直接の交戦には参加していません。
明治10年(1877年)に勃発した「西南戦争」では下関の警備に従事し、日奈久攻略に参加しました。明治18年(1885年)、4月3日に明治天皇の福岡行幸の護衛艦として神戸港に回航中、三重県安乗崎で座礁し破壊されました。
所属した長州藩と、吉田松陰の松下村塾
この軍艦・第二丁卯丸を運用したのも、長州藩(毛利家)です。長州が幕末維新の主役となった原点には、一人の教育者がいました。
吉田松陰です。松陰が萩で開いた私塾・松下村塾からは、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋ら、維新と明治を担う人材が続々と巣立ちました。松陰自身は安政の大獄で刑死しますが、その志は門下生たちに受け継がれ、長州を討幕へと突き動かします。第二丁卯丸は、その松陰の遺志が花開いた長州の一隻です。
第二丁卯をもっと深く——十八年働いて、安乗崎で終わった
長州藩がグラバー商会に二十五万ドルで発注した砲艦二隻のうちの二番艦です。原資は、手放した第二丙寅丸の売却代金十五万ドルでした。
| 艦名の由来 | 慶応3年=丁卯(ひのとう)の年 |
|---|---|
| 発注 | 長州藩からグラバー商会へ |
| 契約 | 砲艦2隻で25万ドル(丁卯丸と同時発注) |
| 形式 | スクーナー級砲艦 |
| 喪失 | 1885年(明治18年)、志摩・安乗崎で座礁 |
同時に発注された、二隻の姉妹艦
第一丁卯と第二丁卯は同じ契約で造られました。慶応三年、干支の丁卯にちなむ命名です。長州藩が幕長戦争のあとに海軍力を整え直そうとしていた時期にあたります。
この時期、各藩は競って外国船を買っています。薩摩藩の春日丸、佐賀藩の孟春丸、備中松山藩の快風丸。幕府がオランダに頼んで造らせていた時代から、藩が商人から買う時代へ変わっていました。
明治の海軍で働き続けた
戊辰戦争ののち、第二丁卯は明治政府の海軍に編入されました。そして1885年まで、十八年にわたって使われています。
姉妹艦の第一丁卯が1875年に択捉島で座礁して失われたあとも、この船は働き続けました。幕末に藩が買った船としては、快風丸と並んで長寿の部類です。
安乗崎
最期は1885年(明治十八年)、志摩半島の安乗崎での座礁でした。伊勢湾の入口にあたる難所です。
グラバー商会が長州に売った砲艦は、こうして二隻とも岩礁に乗り上げて終わりました。戦って沈んだのではなく、日本の海岸線に敗れています。幕末に急いで揃えた艦隊が、明治の海図の未整備とともに消えていった一例といえます。
幕末軍艦一覧リスト

