| 孟春丸 | |||
| 藩名 | 佐賀藩 | ||
| 藩主 | 鍋島直正(閑叟) | ||
| 船種 | スクーナー級砲艦 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 6門 | ||
| 材質 | 鉄骨木皮 | ||
| 馬力 | 191馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||

■ 詳細
孟春丸は佐賀藩の軍艦で三檣スクーナー型で鉄骨木皮の小型砲艦です。征台の役、江華島事件、西南戦争に参加するなどの活躍をしました。
元は慶応三年(1867年)にロンドンで建造されたイギリス砲艦「ユージニー(Eugenie)」で慶応四年一月に長崎で佐賀藩が購入し「孟春丸」と命名されました。この年の二月、「孟春丸」と「豊瑞丸」、「雄飛丸」が日本で初めて艦隊行動を行い、大阪から横浜まで兵員の輸送を行っています。
また戊辰戦争では函館で樹立した榎本武揚率いる旧幕府軍による蝦夷共和国を攻撃するため奥州へ進出しました。明治四年五月、佐賀藩から明治政府に献納されました。その後、兵部省所管となり「孟春」と命名されました。
所属した佐賀藩と、三重津海軍所
この軍艦・孟春丸を運用したのは、佐賀藩(鍋島家)です。佐賀藩は幕末、日本の海軍近代化の最前線を走った藩でした。
その拠点が、三重津(みえつ)海軍所です。ここで佐賀藩は、慶応元年(1865)に実用的な国産蒸気船「凌風丸」を完成させました。三重津海軍所の遺構は、のちに「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されています。孟春丸は、そうした技術立藩・佐賀の海の力を担った一隻です。
孟春丸をもっと深く—戊辰から西南戦争まで、そして練習船へ
幕末に買われた船のなかで、もっとも長く、もっとも多くの戦争を見た一隻といっていい。
| 建造 | イギリス |
|---|---|
| 旧名 | ヨーゼニー |
| 購入 | 慶応四年(1868年)、佐賀藩 |
| 形式 | スクーナー級砲艦 |
| 主な従軍 | 戊辰戦争・台湾出兵・西南戦争 |
| のち | 商船学校の練習船 |
佐賀藩が船を買えた理由
佐賀藩は長崎警備を任されていた藩です。フェートン号事件の失態を受けて以来、藩をあげて西洋技術の導入を進め、日本で最初に実用的な反射炉を築いてアームストロング砲を国産化しました。
その延長線上に艦船の購入があります。電流丸、延年丸、そしてこの孟春丸。三十五万七千石の外様大名が、幕末屈指の技術力を持っていました。
三つの戦争
慶応四年に買われた孟春丸は、まず戊辰戦争に参加します。ついで明治七年の台湾出兵、さらに明治十年の西南戦争に従軍しました。
戊辰戦争は幕府を倒す戦い、台湾出兵は明治政府最初の海外派兵、西南戦争は維新の功労者だった士族との内戦です。維新から十年のあいだに日本が経験した三つの戦争を、この一隻がすべて見ています。
同じ時期の船の多くは、丁卯丸のように座礁で失われるか、電流丸のように早々に解体されています。
最後は学校の船になった
軍役を終えた孟春丸は、商船学校の練習船として使われました。大砲を積んで戦った船が、船乗りを育てる船になります。
幕末に藩が外国から買った船の終わり方としては、これが最も穏やかで、最も実りのあるものだったかもしれません。佐賀藩が長崎で払った代金は、ずいぶん長く効き続けたことになります。
幕末軍艦一覧リスト
孟春丸を船の型と持ち主から読む
孟春丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「スクーナー級砲艦」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装を持つ沿岸を守る小型の砲艦です(帆の張り方・軍艦の格)。鉄の骨組みに木の板を張った「鉄骨木皮」の船体で、木造と鉄造の中間にあたる造りでした。
当サイトで紹介している佐賀藩の船は、この孟春丸を含めて12隻あり、そのうち帆船は2隻です。同じ佐賀藩の船には、神効丸(輸送船)、秋芳丸(輸送船)、甲子丸(バーク船)、皐月丸(バーク船)、金花丸(輸送船)、延年丸(バーク船)、凌風丸(輸送船)、飛雲丸(スクーナー)などがあります。
持ち主の佐賀藩の幕末をふり返ると、洋式化の先進藩。戊辰戦争では新政府軍としてアームストロング砲で活躍。孟春丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
参考資料:Wikipedia日本語版「孟春 (砲艦)」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
持ち主の佐賀藩—パリ万博への出品
慶応三年の佐賀藩 孟春丸が佐賀藩の船となった慶応三年(1867)、佐賀藩はパリで開かれた万国博覧会に、幕府・薩摩藩と並んで出品しました。藩士の佐野常民らがヨーロッパへ渡り、有田焼などの陶磁器を出品しています。佐野は博覧会のあともヨーロッパにとどまって、軍艦の注文や西洋の技術の調査にあたりました。
同じころの日本 同じ年の十月、将軍慶喜は大政奉還を行い、十二月には王政復古が宣言されます。ヨーロッパで万博に参加していた佐賀藩の人々は、遠い異国で日本の政権交代の知らせを聞くことになりました。


