| 第二丙寅 | |||
| 藩名 | 長州藩 | ||
| 藩主 | 毛利慶親 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 不明 | ||
| 写真 | 無 | ||

1866年7月に英国商人グラバーより購入した輸送船です。翌年には長州藩留学生を乗せて上海に向かいました。しかし同年2月14日にグラバーから第一丁卯、第二丁卯丸を購入する際に下取り売却されました。
長州藩が持っていた艦船
一隻だけを見ていると、その藩が海にどれだけ力を入れていたかは分かりません。当サイトで扱っている長州藩の艦船は十一隻で、内訳は輸送船が三隻、砲艦・軍艦が三隻、帆船が五隻です。
- 丁卯丸/スクーナー級
- 第二丙寅(この記事)/輸送船
- 第二丁卯/スクーナー級
- 第一丁卯/スクーナー級
- 丁卯/砲艦
- 丙辰丸/砲艦
- 丙寅丸/バーク船
- 壬戌丸/輸送船
- 庚申丸/砲艦
- 癸亥丸/ブリッグ級
- 乙丑丸/輸送船
目を引くのは、蒸気船ではなく帆船が中心だという点です。蒸気船は高く、燃料と機関の手当ても要ります。帆で動く船を揃えるところから始めた藩も、少なくありませんでした。
桂は吉田松陰に学び、剣の達人でありながら「逃げの小五郎」と呼ばれるほど慎重に危機を切り抜け、討幕の局面をしぶとく生き抜きました。慶応二年(1866)、坂本龍馬の仲介で薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と薩長同盟を結んだのも桂です。維新後は西郷・大久保と並ぶ「維新の三傑」に数えられました。第二丙寅丸は、その長州の一隻です。
高杉晋作が買った船とは、別の船です
紛らわしいので先に分けておきます。高杉晋作が指揮した船は丙寅丸で、こちらとは別の船です。丙寅丸は慶応二年五月、高杉が藩の許しを得ないまま長崎でグラバーから買ったもので、原名をオテントサマといいました。値は三万九千両、資料によっては三万九千二百五両という細かい数字まで残っています。
売られて、二隻の砲艦に化けました
この船は、買ってから一年ほどで手放されています。長州藩がグラバーからこれを買ったのが慶応二年七月。翌年には長州藩の留学生を乗せて上海へ向かいました。そして慶応三年二月十四日、丁卯と第ニ丁卯の二隻を買うときに、下取りとして売り渡されています。売値は十五万ドル、二隻の建造費は合わせて二十五万ドルで、そこから二万ドルを値引きさせたといいます。丙寅丸が三万九千両だったことを思えば、十五万ドルはかなりの額です。それだけの船だったはずですが、建造国も建造年も原名も見つかっていません。留学生を運び、下取りに出されて二隻の砲艦に化けた、というところだけが残っています。
丙寅丸のほうの働き
比べるために、丙寅丸の側を書いておきます。慶応二年六月六日に高杉晋作が海軍総督となり、十三日の未明、久賀の沖で幕府の旭日丸と八雲丸を奇襲しました。十七日には癸亥丸や丙辰丸とともに田ノ浦を砲撃し、七月三日には庚申丸も加えて大里の沖から幕府の船を攻めています。なお坂本龍馬が乗っていたのは乙丑丸で、丙寅丸でも丁卯でもありません。この戦いで幕府の軍が何に敗れたのかは、農民も町人も戦力に変えた—高杉晋作の奇兵隊が破った“戦の常識”にも書いています。
第二丙寅を船の型と持ち主から読む
第二丙寅は蒸気機関を積んだ船ですが、外輪かスクリューかを伝える記録は見つかっていません(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。
当サイトで紹介している長州藩の船は、この第二丙寅を含めて11隻あり、そのうち帆船は4隻です。同じ長州藩の船には、丁卯丸(スクーナー級)、第二丁卯(バーク船)、第一丁卯(スクーナー級)、丁卯(砲艦)、丙辰丸(砲艦)、丙寅丸(バーク船)、壬戌丸(輸送船)、庚申丸(砲艦)などがあります。
持ち主の長州藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。第二丙寅も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。
持ち主の長州藩—四境戦争の大島口
大島口の戦い
第二丙寅丸が長州藩の船となる前の月、慶応二年(1866)六月、第二次長州征討の戦いは周防大島から始まりました。六月八日、幕府の軍艦と松山藩などの兵が島に攻め込み、島を占領します。島民たちは幕府軍の乱暴に苦しみました。
長州の反撃
これに対し、長州は高杉晋作が丙寅丸に乗って夜の海から幕府の艦隊に奇襲をかけ、さらに第二奇兵隊などを島に送り込んで、まもなく大島を取り返しました。小さな船を巧みに使った長州の海軍は、四境戦争の最初の勝利をもたらしたのです。



