| 丁卯丸 | |||
| 藩名 | 長州藩 | ||
| 藩主 | 毛利慶親 | ||
| 船種 | スクーナ-級 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 5門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | 絵図 | ||
■ 詳細
建造時の仮称は「ヒンダ(Hinda)」と称し、イギリス・ロンドンで建造され、慶応4年1月(1868年1月)に長州藩が購入しました。当初の艦名は「丁卯丸」と呼ばれ、後に「第一丁卯」と呼ばれるようになります。
函館戦争では弁天台場砲撃に参加し、朝陽丸・春日丸と共に矢不来の新選組防御陣地を艦砲射撃し、これを駆逐しました。その後、弁天台場砲撃にも参加するが、この時には朝陽と二隻掛かりで攻めたが旧幕府軍の「蟠龍丸」に逆襲されて朝陽丸を失いました。
明治3年(1870年)に政府に献納、同年5月8日(1870年6月6日)に兵部省所管となりました。
所属した長州藩と、大村益次郎
この軍艦・丁卯丸を運用したのは、長州藩(毛利家)です。慶応年間、討幕に向けて軍備を固めた長州藩の海の戦力を担いました。
その長州の軍を近代へと鍛え上げたのが、兵学者・大村益次郎(村田蔵六)でした。もとは宇和島藩で蒸気船を手がけた技術者で、長州に招かれると、慶応二年(1866)の四境戦争で幕府の大軍を退ける采配をふるいます。戊辰戦争では新政府軍の作戦を統括し、日本陸軍の基礎を築きました。丁卯丸は、その近代軍の胎動を映す一隻です。
丁卯丸をもっと深く——船を売った金で、船を買った
長州藩がこの砲艦を手に入れた経緯は、幕末の藩の資金繰りをそのまま映しています。持っていた船を売り、その代金を頭金にして、新しい船を二隻注文しました。
| 艦名の由来 | 慶応3年=丁卯(ひのとう)の年 |
|---|---|
| 発注 | 長州藩からグラバー商会へ |
| 契約 | 砲艦2隻で25万ドル |
| 原資 | 第二丙寅丸の売却代金15万ドル |
| 形式 | スクーナー級砲艦 |
十五万ドルの下取り
長州藩はグラバー商会に第二丙寅丸を十五万ドルで売却し、同じ商会と砲艦二隻を二十五万ドルで契約しました。差額の十万ドルを追加で払った計算になります。
幕長戦争のあと、長州は「勝った藩」として動いていたが、財政は無尽蔵ではありません。船を買い替えるという発想そのものが、この藩の実務感覚をよく表しています。
この二隻が第一丁卯・第二丁卯です。慶応三年、丁卯の年にちなむ命名でした。
寺泊沖で、幕府の名船を沈める
丁卯丸の戦歴でもっとも知られるのが、越後・寺泊沖で順動丸を自沈に追い込んだ一戦です。
順動丸はもともと幕府の高速御用船で、将軍家茂の上洛にも使われた船でした。それが戊辰戦争の局面で、長州の新造砲艦に追い詰められて自ら沈みます。幕府海軍の象徴的な一隻が、長州が船を下取りに出して買った船に沈められました。
明治八年、択捉島で終わる
第一丁卯はその後明治政府の海軍に引き継がれ、1875年(明治八年)、択捉島で座礁して失われました。
幕末に長州が買った砲艦が、最北の島の海で終わります。同型の第二丁卯はさらに十年働いたのち、志摩の安乗崎で座礁しています。二隻とも、戦闘ではなく海で終わりました。
幕末軍艦一覧リスト
第一丁卯のページと、同じ船です
当サイトには第一丁卯のページがあり、同じ一隻を扱っています。この船を買うまでの経緯、すなわち第二丙寅丸を下取りに出して丁卯二隻を注文したことや、高杉晋作と坂本龍馬がどちらも船の着く前に世を去っていたことは、そちらに書きました。どちらのページも残したうえで、相互に注記しておきます。

