快風丸【備中松山藩 スクーナー船 幕末軍艦】

快風丸
藩名 備中松山藩
藩主 板倉勝静
船種 スクーナー船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 絵図
快風丸のイメージイラスト
快風丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(スクーナー船・帆走)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

元はニューヨークで建造されたアメリカの木造帆船「ゴーウルノルワラス」。

文久二年(1862年)九月に備中松山藩が購入し「快風丸」と命名しました。藩主「板倉勝静」が老中に就いていた備中松山藩は佐幕派であったため、戊辰戦争がはじまると慶応四年(1868年)初頭に新政府軍に味方した岡山藩に制圧され、「快風丸」も岡山藩の管理下に落ちました。

同年十月二十四日に朝廷が借用し、十一月二十六日に軍務官所管(新政府軍管轄)となりました。明治二年(1869年)七月八日に兵部省(陸軍)所管、明治四年(1871年)十二月十七日に兵部省(海軍)所管となり明治十三年(1880年)まで石炭輸送に従事しました。同年一月十九日、運輸船と定められたが、翌明治十四年(1881年)二月七日除籍の上、売却されました。

目次

快風丸をもっと深く—借金十万両を返し終えた藩が、船を買った

五万石の小藩が、なぜ外国船を買えたのか。答えは一人の男の名前に尽きます。山田方谷です。

建造 アメリカ・ニューヨーク(木造スクーナー)
旧名 ゴーウルノルワラス
購入 文久二年(1862年)九月、長崎
購入価格 14,300ドル(7,150両)
推進 帆走のみ
備考 寸法・トン数は資料により不一致(諸説あり)

十万両の負債を、ゼロにした改革

備中松山藩は十万両を超える負債を抱えていました。五万石の藩にとっては絶望的な額です。

藩主・板倉勝静に登用された山田方谷がやったことは徹底していました。債務の十年から五十年の返済延期を大坂の商人と交渉しつつ、藩の産業を立て直します。米を仲買を通さず直接売り、鉄器を作らせ、専売制を敷きました。

結果、安政四年(1857年)に負債を完済し、十万両の余剰を蓄えています。あわせて農兵制も導入しました。

快風丸を買ったのは文久二年。財政再建を成し遂げた、その余力による買い物でした。買い付けは三島中洲らの意見を容れて方谷が決めています。

藩主は、幕府最後の老中首座だった

この藩をさらに複雑にしているのが藩主の立場です。板倉勝静は幕府の老中首座を務めた人物で、大政奉還のときも慶喜のそばにきました。伊勢亀山藩との領地交換によって板倉家が備中松山に入った経緯も含めて、備中松山藩のページに書いてあります。

財政を立て直した藩が、その藩主の立場ゆえに朝敵とされます。戊辰戦争で備中松山は岡山藩に制圧され、快風丸ものちに熊本藩の管理下に入りました。

石炭を運んで、明治十四年まで

明治二年以降、快風丸は朝廷に借り上げられ、軍務官を経て海軍省の所属となりました。そして明治十三年まで石炭を運んでいます。除籍は明治十四年二月七日。

幕末に藩が買った船の多くは、戦って沈むか、数年で解体されるかです。この船は二十年近く働きました。方谷の財政感覚が選んだ買い物だったからかもしれません。

快風丸を船の型と持ち主から読む

快風丸は帆走の船です。機関も石炭もいらない帆船は、藩にとって安く使いやすい運び手でした。(帆船と蒸気船の違い)船種は「スクーナー船」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装の船です(帆の張り方・軍艦の格)。

快風丸は、安中藩士の子・新島襄を箱館まで運んだ船でもあります。安中の新島襄旧宅の展示をもとにした【現地取材】新島襄旧宅|本家・備中松山藩の快風丸で箱館へ、一文無しで国の禁を破った安中藩士の子もあわせてどうぞ。

持ち主の備中松山藩—山田方谷の改革と老中・板倉勝静

山田方谷の改革

備中松山藩(板倉家五万石)は、儒学者の山田方谷を登用して、十万両ともいわれた借金を数年で返し、逆に余剰金を生むほどの財政改革をなしとげた藩です。方谷は藩札の整理や特産品の専売を進め、備中鍬などの産物を江戸へ直接運んで売りました。快風丸は、こうした産物を運ぶために藩が買い入れた船でもありました。

老中の藩

快風丸を買い入れた文久二年(1862)、藩主の板倉勝静は老中となり、やがて老中首座として将軍慶喜を支えます。戊辰戦争では旧幕府側として最後まで戦い、勝静は箱館まで渡りました。財政で名を上げた小藩は、幕府とともに大きな波にのまれていきました。

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この船を買わせた藩財政の立て直しについては山田方谷とは何をした人物かをご覧ください。

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