| 君澤形丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクーナー帆船 | ||
| 機関 | 帆走 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 0馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||
■ 詳細
戸田村(西伊豆)で建造された西洋式帆船の型式です。原型は、下田地震の影響で難破したロシア船員の帰国用に建造された「ヘダ号」で、同型船10隻を日本で使用するために量産しました。帆装形式はスクーナーに分類されます。名前は戸田村が属した君沢郡に由来します。
所属した江戸幕府と、戸田で生まれた「君澤形」
この船・君澤形(きみさわがた)丸は、江戸幕府がある事件をきっかけに量産した洋式スクーナーの一つです。
安政元年(1854)、ロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が地震の津波で大破・沈没しました。そこでロシア人と日本人が協力し、伊豆の戸田(へだ)村で代船「ヘダ号」を建造します。この技術を受け継いで幕府が同型艦を造ったのが「君澤形」でした。西洋の造船術を日本が実地に学んだ、貴重な一例です。幕府海軍の歩みは幕末の軍艦のページへ。
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地震と津波が、日本最初の洋式船を生みました
嘉永七年十一月四日の午前十時ごろ、安政東海地震が起き、津波が下田を襲いました。下田市の記録によれば、溺れて死んだ人などが百二十二人、八百七十五戸のうち八百四十一戸が流されるか全壊しています。このとき下田に停泊していたのが、ロシアの使節プチャーチンの乗るディアナ号でした。船はマストを折られ、船体を傷めます。修理のため戸田へ回そうとした途中、安政元年十二月二日、駿河湾の宮島村の沖で浸水して沈みました。
帰る船がないので、造ることになりました
船を失ったロシア人は、帰る手立てをなくしました。そこで日本側とロシア側が組んで、代わりの船を造ることになります。場所は西伊豆の戸田村。安政元年十二月二十四日に起工し、安政二年三月十日に進水しました。三か月ほどの仕事です。全長二十四・六メートル、甲板の長さ二十一・八メートル、幅七メートル、五十人乗りの二本マストのスクーナー。排水量は八十七トンから百トンと、資料によって幅があります。この船が「ヘダ号」、戸田の名を取った船でした。プチャーチンは安政二年三月二十二日に戸田を出て帰国しています。
条約は、その最中に結ばれました
船を造っているあいだに、日露和親条約が結ばれています。安政元年十二月二十一日、下田でのことでした。船をなくした使節が、代わりの船を造ってもらいながら条約を結んで帰った、という順序になります。
造った側に、技術が残りました
この仕事でいちばん得をしたのは日本のほうでした。設計を担ったロシア人士官のもとで、戸田の船大工およそ四十人が洋式船の造り方を覚えたのです。棟梁の一人だった上田寅吉は、のちに文久二年、榎本武揚らとオランダへ留学し、開陽丸の船匠長としてライデンに六年ほど滞在して蒸気機関の製作を習い、慶応三年に帰りました。明治三年には横須賀造船所へ出仕し、海軍工廠の初代工場長、のちに所長となっています。日本造船の父と呼ばれる人です。文政六年の生まれで、明治二十三年に六十八歳で亡くなりました。
十隻が量産されました
ヘダ号と同じ型の船が、日本で使うために量産されました。これが君沢形です。戸田村で六隻、石川島造船所で四隻の合わせて十隻。安政二年の暮れごろまでにできあがっています。全長二十二・七メートル、幅六・一メートル、深さ二・六メートル。君沢形一番という番号で呼ばれました。名前の由来は、戸田村が属した伊豆国の君沢郡です。長州藩と会津藩へ二隻ずつ譲るよう指示が出た、という記録もありますが、実際に渡ったかどうかまでは確かめられませんでした。十隻それぞれの行方を並べた資料も見つかっていません。
戸田に残るもの
洋式帆船建造地跡は昭和五十六年十月に静岡県の史跡となりました。近くの戸田造船郷土資料博物館に、この船にまつわる資料が展示されています。同じころ日本各地で造られた小さな洋式船には、仙台藩の開成丸、長州藩の丙辰丸、幕府が長崎で造った長崎形があります。

