昌平丸(昇平丸)【江戸幕府 バーク帆船 幕末軍艦】

昌平丸(昇平丸)
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 バーク帆船
機関 帆走
備砲 0門
材質 木製
馬力 0馬力
写真 スケッチ

■ 詳細
嘉永5年(1852年)12月27日に幕府に対して当時薩摩の庇護下にあった琉球王国の防衛を名目に、琉大砲船(洋式軍艦)の建造願いを提出しました。薩摩藩主島津斉彬は、嘉永6年(1853年)4月29日に建造の許可が幕府から降りると、同5月29日に桜島瀬戸村造船所で「昇平丸(長15間・幅4間の洋式帆船)」を起工しました。

嘉永7年(1854年)5月10日に竣工した鳳凰丸に続いて日本で2番目の洋式軍艦です。安政2年(1855年)1月26日に昇平丸と命名され、同年2月には江戸に回航の上、幕府に献上されました。その後は品川に置かれ、長崎海軍伝習所への伝習生派遣など、主として練習艦として使用されました。

明治維新後の明治2年(1869年)、昌平丸は咸臨丸と共に開拓使所管となり、輸送船として使われたが、明治3年(1870年)3月、松前沖で嵐に遭遇し北海道の上ノ国木の子村の猫澤海岸で高波により座礁して破船しました。

目次

薩摩藩が建造した洋式軍艦「昇平丸(昌平丸)」

昇平丸は、幕末の名君・島津斉彬のもとで薩摩藩が建造した洋式帆走軍艦で、安政元年(1854年)に竣工しました。日本人が独力で建造した初期の洋式軍艦の一つであり、西洋の技術を積極的に取り入れた薩摩藩の先進性を示す一隻です。

「日の丸」を掲げた船

昇平丸は、日本の船であることを示す目印として白地に赤い丸の「日の丸」を掲げたことで知られ、これがのちの日章旗(国旗・日の丸)につながったとされます。斉彬の建言により、日本の船が掲げる総船印として日の丸が定められた経緯とも深く結びついており、国旗のふるさととして語られる船です。

幕府への献上

竣工後、昇平丸は薩摩藩から幕府へ献上され、幕府の軍艦として運用されました。薩摩藩の造船技術と、幕末の国防意識の高まりを今に伝える象徴的な軍艦です。

昌平丸(昇平丸)をもっと深く——日の丸を掲げた船

ペリーが来る前に、建造許可を取っていた

薩摩藩主・島津斉彬が幕府へ洋式軍艦の建造願を出したのは嘉永五年十二月、許可が下りたのが嘉永六年四月です。ペリーが浦賀に現れる、その前のことでした。

名目は琉球の防衛です。当初は琉球で建造する予定だったが、材木が調達できず薩摩へ変更されました。琉球王府からは具志川親方らが派遣されています。嘉永六年五月に桜島の瀬戸村で起工し、安政元年十二月に竣工しました。

建造 日本・薩摩(桜島瀬戸村、1855年竣工)
排水量 約370トン(推定)
形式 3本マストのバーク型帆船
推進 帆走のみ(機関なし)
全長 約30.9メートル
乗員 40名
備砲 10門とも、24ポンド・カロネード砲8門ほかとも(諸説あり)

日の丸のはじまり——ただし、諸説ある

この船は「日の丸を掲げた最初の日本船」としてしばしば紹介されます。江戸へ回航された際、船尾に日の丸を掲げたのが、日本の船旗としての日の丸掲揚の第一号だとする説です。

ただし異説もあります。日の丸を日本船の総印とすることは浦賀奉行の提案によって鳳凰丸の竣工時に定められており、昇平丸はその規定を適用しただけだ、という見方である(安達裕之ら)。

島津斉彬が日の丸を日本の船の印とするよう建議したこと自体は、よく知られています。ただし「この船が最初に掲げた」と言い切れるかどうかは、資料の読み方によります。いまの日本の国旗の出発点が、幕末の二隻の船をめぐる論点になっています。

献上されて、名前が変わる

竣工した船は幕府へ献上され、安政二年正月に「昇平丸」と名づけられました。品海での砲撃試験には島津斉彬が臨席し、水戸藩の徳川斉昭とその子・慶喜も乗り込んで実弾射撃を行っています。のちに敵味方に分かれる人々が、同じ甲板で新造船の砲を撃っていました。

献上後は「昌平丸」と改称され、長崎海軍伝習所の伝習船となります。勝麟太郎や矢田堀景蔵が乗り組みました。オランダから献上された観光丸と並んで、日本の海軍教育の出発点にある船です。

猫澤海岸

文久元年からは神奈川の警衛に就き、維新後は開拓使の輸送船として使われました。

明治二年十二月に函館を出港した昌平丸は、翌明治三年、松前沖で嵐に遭い、北海道上ノ国の猫澤海岸で座礁・破船します。遭難の地にはいま慰霊碑が立っています。

薩摩が造り、幕府に献上され、明治政府が使い、北海道の浜で終わりました。一隻の船が、幕末から明治への政権の移り変わりをそのまま乗り継いだことになります。

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