黒竜丸【江戸幕府 輸送船 幕末軍艦】

黒竜丸
藩名 江戸幕府
藩主 徳川慶喜
船種 輸送船
機関 蒸気内車
備砲 2門
材質 木製
馬力 100馬力
写真 無
黒竜丸のイメージイラスト
黒竜丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

原名「コムシング(金星)」。1865年福井藩より献上。小型で装備も貧弱だが一応正式の軍艦です。

目次

所属した江戸幕府と、艦船の買い付け

この船・黒竜丸を運用したのも、江戸幕府です。急いで海軍を整えるため、幕府は多くの艦船を外国から買い求めました。

自前で軍艦を造るには時間がかかるため、幕府はアメリカやイギリス、オランダなどから既製の汽船・帆船を次々と購入しました。黒竜丸も、そうして海を渡ってきた一隻とみられます。買い集めた艦船と、育てた人材とで、幕府は短期間に海軍を築こうとしたのです。全体像は幕末の軍艦のページへ。

中国で造られ、はじめに買ったのは福井藩でした

伝わる記述では江戸幕府の船としていますが、最初の持ち主は福井藩です。原名はコムシン、金星の字を当てます。アメリカのトーマス・ハント商会が、中国の広州にある黄埔という港町で造りました。木造でスクリューの蒸気船、百馬力、長さはおよそ五十二メートル、幅七・四メートル。福井藩が買ったのが文久三年三月十四日、長崎で引き渡しが済んだのが五月一日の午後三時、越前へ着いたのが五月十日です。値は十二万五千ドルでした。間に立ったのはハント商会香港支店のアームストロングと、当時の長崎駐在アメリカ領事ジョン・ウォルシュ。日本側では長崎の豪商・小曾根乾堂が動いています。母港は表向き三国湊でしたが、実際には敦賀を拠点に使われました。

長崎で、五代才助と松本良順が見に来ています

この船には航海記が残っています。水谷虎作が文久三年四月三日から五月九日まで書いた「海中日記」で、乗組員二十四人の当番割まで記されています。長崎に停泊していたあいだ、薩摩藩の五代才助、のちの五代友厚と、幕府の奥詰医師である松本良順が、この船を見物に来ました。速さについては、一時に四里から四里半という記録が残っています。

船の係になったのは、のちの由利公正です

文久三年六月、福井藩はこの船の御用掛りに御奉行の三岡八郎を任じました。のちに由利公正と名乗り、五箇条の御誓文の原案を書いた人です。乗組頭は山県克之助。七月八日には家老の岡部豊後、側用人の酒井十之丞、そして三岡八郎を乗せて敦賀を出て、熊本と薩摩へ向かい、二十日に長崎へ着き、八月二十七日に敦賀へ帰りました。

島津久光も乗っています

文久三年八月十四日、大久保市蔵、のちの大久保利通から船を貸してほしいという話が来ます。松平春嶽は迷ったすえに承知しました。九月二十九日の「海舟日記」に、島津三郎が乗って兵庫へ入ったと書かれています。島津三郎とは島津久光のことです。

春嶽は、この船に不満でした

春嶽自身がこの船に乗った記録は見あたりません。残っているのは不満のほうです。文久三年八月三十日の手紙で、ねじ、つまりスクリューが一度壊れたら日本では直すのが難しい、と書き、船が小さいことにも触れて、外輪でもっと長い船に買い換えたいという考えを示しています。現場も同じでした。酒井十之丞は七月二十日の手紙に、船全体が弱く、機関にも故障が少しあり、積める量も大したことがない、と書いています。

勝海舟が買い上げを建白し、天狗党を撃ちました

文久四年二月七日、勝海舟が幕府の重役へ建白します。この船を幕府が買い上げて参勤交代や荷物の輸送に使い、そこで得た金を神戸海軍操練所の費用に充てる、という構想でした。元治元年七月十九日、四万五千両で幕府へ正式に引き渡されます。なお慶応元年に福井藩から献上された、と書かれることもありますが、福井県文書館の紀要は元治元年七月十九日の引き渡しで金四万五千両としており、年も、献上か売却かも食い違います。七月二十七日の「海舟日記」には、ライフル砲などを積み込んだと書かれています。輸送船が軍艦になったわけです。そして元治元年十月五日、常陸の那珂湊に立てこもる天狗党へ向けて、海上から砲撃を加えました。艦長にあたる頭取代は幕臣の塚本桓輔です。この乱の経緯は天狗党の乱にまとめています。

将軍の帰りにも、故障した船の曳航にも使われました

幕府の船になってからの動きも日付で残っています。元治元年五月六日に政事総裁職の松平直克を大坂から江戸へ、十四日に大目付の菊池隆吉を江戸から大坂へ運び、十八日には将軍の海路の帰りに供として大坂を出ました。六月十七日には、故障した長崎丸を江戸から伊豆の下田まで曳いています。十二月には将軍家茂の海路の上洛に備えて兵庫と江戸を往復しました。中国で造られ、福井藩が買い、薩摩が借り、幕府が買い上げて天狗党を撃った船ということになります。

黒竜丸を船の型と持ち主から読む

黒竜丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。

当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この黒竜丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、千代田形(スクーナー級砲艦)、長鯨丸(輸送船)、太平丸(輸送船)、第二長崎丸(スクーナー級輸送船)、第一長崎丸(輸送船)、千歳丸(バーク級輸送船)、千秋丸(バーク級商船)、神速丸(輸送船)などがあります。

持ち主の江戸幕府の幕末をふり返ると、幕府海軍。戊辰戦争では榎本武揚が艦隊を率いて箱館へ渡り、明治2年に降伏。黒竜丸も、そうした幕府の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

黒竜丸を献上した越前藩—橋本左内

越前藩と左内

黒竜丸を幕府に献上した越前藩(福井藩)は、藩主・松平春嶽のもとで、横井小楠や橋本左内らを用いて改革を進めた藩です。左内は藩医の家に生まれ、若くして洋学を学び、春嶽の側近として、一橋慶喜を将軍の跡継ぎに立てるための運動に奔走しました。

安政の大獄

しかし井伊直弼が大老となると、左内は安政の大獄で捕らえられ、安政六年(1859)、二十六歳の若さで処刑されます。春嶽もまた隠居と謹慎を命じられました。のちに越前藩が幕府に船を献上し、春嶽が政事総裁職として幕政を担うのは、左内の死から数年後のことです。

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