| 長崎丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | 輸送船 | ||
| 機関 | 蒸気外輪 | ||
| 備砲 | 0門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 無 | ||
■ 詳細
原名「シュアルツ・アーリスファルブ」。長崎丸には同型艦が三隻有り、全て1863年イギリスから幕府が購入しました。元治元年四月、薩摩藩に貸与中に下関で外国船と間違われて長州藩に砲撃され、破壊されました。
所属した江戸幕府と、長崎製鉄所
この船・長崎丸を運用したのも、江戸幕府です。艦船を維持するには、修理や部品を作る工場が欠かせませんでした。
そこで幕府は、長崎の飽の浦にオランダの技術を導入した長崎製鉄所(機械工場)を建設します。ここは日本の近代的な造船・機械工業のさきがけとなりました。長崎丸は、そうした技術基盤に支えられた幕府海軍の一隻です。全体像は幕末の軍艦のページへ。
幕末軍艦一覧リスト
撃たれたのは、この船です
長崎丸事件で沈んだのが、この長崎丸です。千八百四十六年のイギリス生まれで、文久三年二月に長崎で四万八千ドル、百三十八トン、蒸気外輪の六十馬力。原名はシュアルツ・アーリスファルブと記されています。幕府の船でしたが、事件のときは薩摩藩に貸し出されていました。
日付が資料で食い違います
いつの出来事かについて、書き方が分かれています。当ページは元治元年四月としていますが、外部の資料の多くは文久三年十二月二十四日とします。西暦に直すと千八百六十四年二月一日で、この年が元治元年にあたりますから、西暦の年と和暦の月が混ざった結果かもしれません。ここは確定できていません。
六十八人のうち、二十八人が亡くなりました
関門海峡を通っていたところを、長州藩の前田砲台と壇ノ浦砲台が撃ちました。乗っていた六十八人のうち二十八人が死んでいます。外国船と見誤られた、と伝えられますが、八月十八日の政変で長州が京都を追われた直後でもあり、報復ではなかったかという見方もあります。死んだ人のなかに宇宿彦右衛門がいました。島津斉彬に抜擢されて反射炉の開発にあたった、集成館事業の中心にいた技術者です。積荷は繰綿六百本、荏子油十挺、化学薬品、そして御用金百五十両。近くにいた大麻丸が救助にあたりました。大正十年八月に招魂碑が建てられ、碑文は松方正義が書いています。
同じ名の船が三隻あります
当ページは同型艦が三隻あったとしています。長崎丸、第一長崎丸、長崎丸二番です。第一長崎丸は原名ビクトリア、六十馬力で九十四トン、元治元年十二月二日に八丈島で難破しました。長崎丸二番は十万ドル、百二十馬力で三百四十一トン、慶応二年には老中の小笠原長行を小倉へ運び、戊辰戦争では榎本の艦隊に加わって、最後は庄内藩を助けるため酒田へ向かう途中、飛島で座礁しています。同じ名の三隻が、それぞれ別の終わり方をしました。
もう一つ、同じ船のページがあります
当サイトには長崎丸のページがもう一つあり、そちらでは幕府の船がなぜ薩摩藩に貸し出されていたのかを書いています。長崎丸のページもあわせてご覧ください。

