栃木県那須烏山市、緑深い山あいに「烏山城址 0.5KM」と記された木の道標が立っています。この道標の先、標高およそ二百メートルの山上に広がるのが、関東屈指の中世山城として知られる烏山城(からすやまじょう)です。三万石の小さな城下町の背後にそびえたこの城と、幕末まで続いた烏山藩には、「大名が次々と入れ替わった藩」「本家・小田原とつながる二宮尊徳の財政再建」といった、意外に濃い物語が刻まれています。今回はこの道標を起点に、烏山の幕末をたどってみます。
那須氏の山城 ― 烏山城の成り立ち
烏山城は、応永年間(十五世紀初め)に那須地方の名族那須氏の一族によって築かれたと伝わる中世の山城です。八つの尾根に曲輪を配した大規模な構えから「臥牛城(がぎゅうじょう)」とも呼ばれ、土塁・空堀・石垣が幾重にも山を守っていました。その規模と遺構の良さから、現在は「続日本100名城」にも選ばれています。しかし天正十八年(一五九〇年)の小田原征伐の際、主家の那須氏が処分を受けると、烏山城も近世の新しい時代を迎えることになります。
大名が八家も入れ替わった珍しい藩
近世の烏山藩の際立った特徴は、藩主家がめまぐるしく交代したことです。天正十九年(一五九一年)に成田氏長が入ったのを皮切りに、松下氏(一六二三年)、堀氏(一六二七年)、板倉氏(一六七二年・五万石で城主大名に昇格)、那須氏(一六八一年・同年に改易)、永井氏(一六八七年)、稲垣氏(一七〇二年)……と、およそ百三十年の間に実に八つもの大名家が入れ替わりました。これほど藩主が替わった藩は全国的にも珍しく、烏山藩の歴史そのものが、江戸幕府の大名統制のありようを映す鏡のようです。
この間、万治年間(一六五八年ごろ)に藩主・堀親昌が中世以来の山城を大きく改修し、山麓に新たに三の丸と御殿を築いて藩の政庁としました。以後の烏山城は、険しい山上の城郭と、麓の居館とがひと組になった姿になっていきます。
大久保家の入封 ― 小田原大久保家の分家
長い交代劇に終止符を打ったのが大久保家でした。享保十年(一七二五年)、大久保常春(おおくぼ つねはる)が二万石で烏山に入封します。常春は、あの小田原藩主・大久保家の分家筋にあたる人物で、入封の三年後、享保十三年(一七二八年)には老中に昇進。相模国での加増を受けて石高は三万石となりました。常春は「藩政心得三十か条」を定めて統治の指針を示しており、以後、大久保家が廃藩まで烏山を治めることになります。ようやく腰を落ち着けた藩主家だったのです。
二宮尊徳を招いた財政再建
とはいえ、江戸後期の烏山藩は厳しい財政難と領内の荒廃に苦しみました。天保四年(一八三三年)には藩内で打ちこわしが起こっています。そこで藩が頼ったのが、二宮尊徳(にのみや そんとく)でした。天保七年(一八三六年)、烏山藩は報徳仕法で名高い尊徳を招き、財政の立て直し(仕法)を試みます(天保十年に中断)。じつは尊徳は、本家である小田原藩で報徳仕法を実践した人物。本家・小田原で芽吹いた尊徳の教えが、分家・烏山でも試みられたわけで、大久保一門のつながりがここにも見てとれます。
幕末の烏山藩
幕末の烏山藩を率いたのは、最後の藩主大久保忠順(おおくぼ ただより)でした。領内の荒廃が尾を引いていたこともあり、幕末の烏山藩は中央で特に目立った動きを見せることはなく、戊辰戦争では新政府軍に恭順して静かに時代の転換を受け入れました。派手な戦いや政変の舞台にはなりませんでしたが、財政再建に苦しみながら領地を守り抜いた小藩の姿は、幕末を生きた多くの藩の等身大の現実を伝えてくれます。明治二年(一八六九年)に版籍奉還、明治四年(一八七一年)の廃藩置県で、烏山藩はその歴史を閉じました。
道標の先の山城へ ― 現地を訪ねて
今回私が立ったのは、麓の「烏山城址 0.5KM」の道標まで。ここから山道を登った先には、本丸・二の丸・三の丸をはじめ、石垣や大規模な堀切・土塁が良好に残る、本格的な中世山城の姿が待っています。城下の華やかさよりも、山と一体となった要害の険しさにこそ、那須の地を守り抜いた烏山城の本質があるのだと、道標を見上げながら思いを巡らせました。八家の大名が入れ替わり、二宮尊徳の教えに救いを求めた小藩の三百年――静かな山道の入り口に、その長い歴史がそっと息づいていました。
烏山城跡へのアクセス・地図
烏山城跡は栃木県那須烏山市、JR烏山線・烏山駅から徒歩圏内の山上にあります。麓の三の丸跡(毘沙門山)から遊歩道で登れます。
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