小田原藩の歩み
貞享三年(1686年)に、下総佐倉藩主「大久保忠朝」が十万三千石で入封しました。大久保忠朝は小田原藩最初の藩主「大久保忠世」の5代目にあたり、当時は幕府の老中でした。一度は本多一派の策略により失脚した大久保氏だが以後は幕末・明治初頭まで大久保氏の支配が10代続きました。

慶応四年(1868年)からの「戊辰戦争」では、官軍に恭順して箱根の関所を明け渡したが、五月に「人見勝太郎」や「伊庭八郎」の「遊撃隊」、請西藩主「林忠崇」ら旧幕府軍の攻撃により官軍側が不利になると旧幕府軍に協力しました。
しかし、江戸に在府していた藩士「中垣斎宮」の説得を受けて自ら本源寺に謹慎して再び官軍に恭順しました。小田原藩の恭順により沼津藩や伊豆の韮山代官所を含めた箱根で防衛線を引き新政府軍を防ぐという人見・伊庭・林らの作戦は潰えました。戦後小田原藩は裏切ったことを問題視され、明治元年(1868年)九月に蟄居の上、家督を養子「大久保忠良」に譲り渡しました。
関東の玄関・小田原藩
小田原藩は、相模国(現在の神奈川県小田原市)に置かれた十一万石余りの藩で、名城・小田原城を居城とし、藩主は譜代の名門・大久保家でした。箱根の関を控え、東海道から関東へ入る玄関口を押さえる、軍事上きわめて重要な藩でした。
去就に揺れた戊辰戦争
戊辰戦争において小田原藩は、はじめ新政府に恭順しました。しかし旧幕府方の遊撃隊が来援すると、一度はこれに協力して旧幕府方につきます。その後ふたたび新政府方へと転じ、箱根で旧幕府方と戦うなど、めまぐるしく立場を変えました。要衝を預かる譜代大名が、幕末の激流のなかで進退に苦しんだ様子をよく伝えています。
★三度、旗色を変えた藩
小田原藩の戊辰は、幕末でも屈指の揺れ方をしました。
この藩は箱根の関所を預かる家です。東海道を江戸へ向かう軍勢は、必ずここを通ります。地理的に、中立でいることが許されない場所にありました。
慶応四年三月、東征軍が迫ると小田原藩は新政府に恭順します。—ここまでは、多くの譜代と同じです。
遊撃隊が来て、寝返る
ところが閏四月、旧幕府の遊撃隊が真鶴に上陸し、小田原方面に現れました。率いていたのは、上総請西藩主でありながら自ら脱藩して戦った林忠崇、そして心形刀流の遣い手伊庭八郎です。
そして五月、上野の彰義隊の戦いに呼応して遊撃隊が箱根の関所を押さえにかかると、小田原藩はこれに同調し、一転して旧幕府側につきます。
—譜代の血が、ここで一度勝ったわけです。
そして、また裏返る
しかし新政府軍が本格的に迫ると、小田原藩は再び新政府側へ翻ります。
そして昨日まで味方だった遊撃隊に、銃口を向けたのです。
箱根山崎での戦闘で、伊庭八郎は左腕をほとんど斬り落とされます。彼はそのまま船で北へ渡り、片腕のまま箱館まで戦い抜きました。
—「小田原に裏切られた」という記憶は、旧幕府側の記録に強く残っています。
それでも、責められるだろうか
小田原藩は戦後、この二転三転を咎められて処分を受けました。
ただ、この藩の位置を思うと、どの選択も破滅につながっていたことが分かります。恭順すれば譜代の義理を捨てることになり、抗戦すれば城下が焼かれます。そして箱根の関は、どちらの軍にとっても通らねばならない場所でした。
—踏み絵の上に城を建ててしまった藩、というのが正確なところだと思います。
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二宮尊徳を登用した藩で、領内の再建は成功しませんでした
小田原と二宮尊徳の関係は、成功物語として語られがちです。ところが日本大百科全書の記述は違います。
「大久保忠真の代に二宮尊徳を起用して報徳仕法を実施したが、領内の再建は成功しなかった」。
尊徳は小田原市の説明では「小田原に生まれ」「農家の家に育ち」、「当時の小田原城主・大久保忠真に登用され、数々の業績を残した」人です。その尊徳を抱えた藩でありながら、自領の再建は果たせなかった。十一万三千石の藩の実情がここに出ています。
尊徳を祀る報徳二宮神社は、城跡の中に建っています。創建は明治二十七年(1894年)四月。藩がなくなって二十三年後に、藩が登用した農政家の神社が城内にできたことになります。
大久保忠真は老中でしたが、首座の裏づけはありません
その忠真について、一点正確にしておきます。
忠真の老中就任は文政元年八月二日(1818年)で、松平定信の推挙によるもの、在職は二十年以上に及びました。ただし「老中首座」であったかどうかは、はっきりしません。天保期の老中首座としては水野忠邦が知られています。忠真は安永七年(1778年)生、天保八年三月十九日(1837年4月23日)没、享年六十です。
そのあとを継いだのが大久保忠愨(ただなお)で、忠真の孫にあたります。文政十二年四月十八日(1829年)生、安政六年十一月三十日(1859年)没、天保八年三月十九日に襲封しました。祖父が急死したその日です。
幕末の藩主大久保忠礼(ただのり)は天保十二年(1841年)十二月二日生、明治三十年(1897年)八月十日没、享年五十七。讃岐高松藩主・松平頼恕の五男として生まれ、安政六年(1859年)に忠愨の養子として家督を継ぎました。戊辰のときは満二十六歳です。
箱根山崎の戦いは五月二十六日午後二時でした
「三度旗色を変えた」経過を、日付で並べておきます。
明治元年二月二十八日、東海道軍が箱根関所を占領し小田原藩に預ける。四月四日、江戸城開城。四月十一日、大総督の有栖川宮が小田原宿に入城。
閏四月、上総請西藩主の林昌之助(林忠崇)と幕府遊撃隊の伊庭八郎らが手兵を率いて千葉方面から真鶴に上陸し、小田原城下に入る。
五月十五日、上野彰義隊の戦闘のあと、昌之助らが沼津から箱根関所を経て小田原へ入城し、藩論をくつがえす。五月二十四日、遊撃隊が湯本村の福住九蔵宅に止宿。
そして五月二十六日午後二時、「湯本山崎に大砲台を築いた小田原藩軍と遊撃隊との戦いが始まった」。新政府軍の援護射撃によって小田原藩軍が反撃し、敗退した遊撃隊の放火で仲宿堂之前と湯本茶屋が焼失しました。同日の堂ヶ島での対戦で七名が戦死しています(どちら側の七名かは記述が曖昧です)。翌五月二十七日、遊撃隊は箱根関所前の新屋町で放火して熱海へ脱出しました。
この遊撃隊では、伊庭八郎のほかに人見勝太郎も隊を率いていたと伝えられます。
戦後の処分も日付が残っています。九月二十七日、藩主忠礼が蟄居を命じられ領地没収。そして十二月四日、養子の忠良に小田原七万五千石が与えられて家名存続を許されました。十一万三千石から七万五千石への減封です。忠礼が再び当主に戻るのは明治八年(1875年)七月のことでした。
十一万三千石はどう積み上がったか
石高の経緯を整理します。天正十八年(1590年)の小田原攻めのあと、大久保忠世が四万石で城主となりました。寛永九年(1632年)に稲葉正勝が下野真岡から八万五千石で入り、稲葉氏三代(正勝・正則・正往)の時代を経て、貞享三年(1686年)に大久保忠朝が下総佐倉から十万三千石で再入部。そして元禄7年(1694年)、忠朝が1万石を加増されて十一万三千石となり、以後は変わりません。
四万石で始まった藩が、いったん他家に渡ってから戻ってきて十一万三千石になった。大久保家が小田原に二度入っているのがこの藩の特徴です。
城は地震で二度こわれています
小田原城の近世は、地震の歴史でもあります。
小田原市の説明では、元禄十六年(1703年)の大地震のときには「小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失」しました。そして天守閣は宝永三年(1706年)に再建され、明治三年(1870年)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。
二度目が近代です。大正十二年(1923年)九月の関東大震災により、御用邸・石垣がほぼ全壊しました。
戦国の北条五代の本城で、十五世紀中頃に大森氏が八幡山に山城を築いたのが始まりとされ、十五世紀末(1500年頃)に伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出。最盛期の城域は約四百ヘクタールにおよびました。天正十八年の小田原合戦の際には城下町をも取り込む全周約九キロの総構の土塁と堀をめぐらせて豊臣勢を迎え撃っています。
復元は六十年かけて進んでいます
現在の小田原城の建物は、時期を分けて整備されてきました。
昭和九年(1934年)に隅櫓再建。昭和三十五年(1960年)五月に天守閣復興(市制二十周年の記念事業)。昭和四十六年(1971年)三月に常盤木門。平成九年(1997年)十月に銅門。平成二十一年(2009年)三月に馬出門。
天守はその後平成二十七年七月から平成二十八年四月末まで、開館以来初の大改修が行われ、平成二十八年(2016年)五月一日に展示内容を一新してリニューアルオープンしました。
小田原城跡は国史跡で、当初指定は昭和十三年(1938年)八月八日。その後、昭和三十四年五月二十九日を含めて令和七年までに十数回の追加指定が行われ、指定面積は三十万九千五百六十七平方メートル余になっています。約三十ヘクタールです。昭和五十八年から本格的な史跡整備が進み、御用米曲輪などから戦国期の遺構が見つかっています。
もう一つの国史跡が石垣山、通称「石垣山一夜城」です。国史跡の指定は昭和三十四年(1959年)五月十三日。天正十八年の小田原合戦に際し、豊臣秀吉が小田原城攻略のために築いた城で、石垣で構築された近世城郭、複数の曲輪からなり、石積みは「野面積み」の古い技法です。井戸曲輪の石垣が保存状態良好で、出土した瓦に年号銘があり、合戦後も短期間の造営が続いたことを示しています。
藩校と、城下の産業
藩校は集成館(のち文武館)。文政五年(1822年)、大久保忠真が興しました。二宮尊徳を登用した藩主が、同じ時期に藩校も立てています。
小田原の地場産業は、戦国から江戸にかけて積み上がったものが多いのが特徴です。小田原市の説明から並べます。
小田原漆器は起源が室町時代中期で、北条氏三代氏康が城下に塗師を招いたことで発展。素材はケヤキで、すり漆塗・木地呂塗が特徴です。小田原鋳物は戦国時代に北条氏の奨励で始まり、江戸期に最盛期を迎えて相模国の半数以上の生産量を占めました。梅干しは戦国時代に薬効に着目して軍用として奨励され、江戸期に庶民へ広がります(代表品種は「十郎梅」)。
小田原提灯は江戸時代中期に職人の甚左衛門が考案。小田原蒲鉾は江戸後期、日本橋から移住した職人が相模湾のオキギスで板蒲鉾を完成させました。小田原ひものは江戸時代、アジやカマスの開き干しが発祥です。箱根寄木細工(正式名称です)は木肌の色を組み合わせて幾何学文様をつくる工芸で、小田原漆器とともに昭和五十九年に経済産業大臣指定の伝統的工芸品になっています。
幕末の小田原城下は、漆器と鋳物と提灯と蒲鉾と干物の町でした。東海道の宿場としての需要が、そのまま産業になっています。
その後
廃藩置県は明治四年(1871年)七月十四日。小田原県となり、同年十一月十四日の布告で小田原県と荻野山中県が廃止されて足柄県が設置されました。そして明治九年(1876年)四月十八日の布告で足柄県が廃止され、伊豆国は静岡県に、相模国は神奈川県に編入されます。
大久保忠礼は明治十七年(1884年)の華族令施行で子爵となりました。
小田原城を実際に歩いた様子は、【現地取材】小田原城を歩くにまとめています。
小田原藩をもっと詳しく
先祖の戦国武将・大久保忠世
小田原藩大久保家の祖とされる大久保忠世(ただよ)は、天文元年(1532年)生まれの徳川家康の家臣です。永禄六年(1563年)の三河一向一揆、元亀三年(1572年)十二月の三方ヶ原の戦い、天正三年(1575年)の長篠の戦いに加わり、同じ天正三年十二月には遠江の二俣城の城主に任じられました。天正十三年(1585年)には信濃の真田昌幸と戦った上田合戦にも出陣しています。
天正十八年(1590年)に後北条氏が滅びると、関東に入った家康は「東国の押さえ」として忠世を小田原城主にしました。このときの領地は足柄上郡・足柄下郡の百四十七か村、四万石でした。
藩の成り立ち:一度途切れた大久保家の小田原支配
忠世は文禄三年(1594年)に亡くなり、嫡子の大久保忠隣(ただちか)が跡を継ぎました。忠隣は老中として幕政にも関わりましたが、慶長十九年(1614年)一月十九日に改易され、小田原城は破却されます。改易の理由としては、幕府に無断で縁組をしたことや、馬場という者の訴えが挙げられていますが、その訴えは虚言だったとされています。忠隣は近江国に流され、彦根藩の井伊直孝に預けられました。
その後の小田原は、元和五年(1619年)に阿部正次が五万石で入りますが、四年後には武蔵岩槻へ移り、ふたたび城主のいない番城となりました。寛永九年(1632年)に稲葉正勝が入ってから、ようやく藩の治世が固まったとされます。
一方、大久保家は忠隣の武功が大きかったことから、嫡孫の忠職(ただもと)が家を継ぐことを許されました。そして忠職の従弟で養子となった大久保忠朝が、延宝五年(1677年)に老中となり、肥前唐津(九万三千石)、下総佐倉を経て、貞享三年(1686年)に十万三千石で小田原に戻ります。改易から七十年あまりを経ての復帰でした。
本家と分家:荻野山中藩
小田原藩には、荻野山中藩(おぎのやまなかはん)という支藩がありました。始まりは元禄十一年(1698年)、忠朝の次男・大久保教寛(のりひろ)が六千石を分けられたことです。教寛はその後、宝永三年(1706年)と享保三年(1718年)にそれぞれ五千石を加えられて大名となり、陣屋を駿河国松長(いまの静岡県沼津市松長)に置きました。天明三年(1783年)、陣屋が相模国愛甲郡の荻野山中(いまの神奈川県厚木市中荻野)に移り、荻野山中藩となります。石高は一万三千石でした。
この荻野山中陣屋は、慶応三年(1867年)十二月十五日の夜、藩主が甲府城の勤番で留守のあいだに、薩摩藩士を中心とする倒幕派の浪士隊に襲われて焼き打ちされ、三人が即死しました。支藩の陣屋が、本家と同じ相模国のなかで襲われた事件です。
領地のようす:足柄平野と富士山の噴火
小田原藩の領地は、相模国の足柄上郡・足柄下郡を中心に、駿河国駿東郡の一部などにまたがっていました。いまの小田原市から足柄平野、箱根、そして静岡県の御殿場・小山方面にあたります。
この領地を大きく変えたのが、宝永四年(1707年)の富士山の宝永大噴火です。駿東郡の御厨(みくりや)地方は厚く降り積もった軽石や火山灰に覆われ、家や蔵が倒れたり焼けたりして食料も失われました。藩主の大久保忠増は自力での復興は無理と判断して幕府に救済を願い、駿東郡や足柄上郡・足柄下郡などの約五万六千石、百九十七か村がいったん幕府の直轄地とされ、伊奈忠順(ただのぶ)が復興の責任者になりました。
被害はその後も続きました。積もった灰が流れ込んで酒匂川の川底が上がり、大口堤が決壊して、足柄平野が灰まじりの濁流に埋まりました。足柄平野の土砂の氾濫は約百年にわたって繰り返されたとされ。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十一万三千石のこの藩はおよそ二千六百六十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「小田原藩」「大久保忠世」「大久保忠隣」「大久保忠朝」「荻野山中藩」「松長藩」「宝永大噴火」
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小田原の現地を歩いた記録
小田原藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の二本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



