幕末の藩を歩いて知ろうと各地の史跡を訪ねています。今回は神奈川県小田原市。箱根の玄関口として知られるこの町は、江戸時代を通じて大久保家十一万三千石の城下であり、東海道でも指折りの要衝でした。そして幕末、小田原藩は生き残りをかけて藩論が二転三転する、苦い季節を迎えます。青空にそびえる白亜の天守を見上げながら、妻とふたり、幕末の小田原を歩いてみました。
大久保家十一万石の城——小田原城
小田原城が大久保家の居城となったのは貞享三年(1686)のこと。以後、明治維新まで大久保氏がこの地を治めました。天守は宝永年間(1706)に再建されたものが幕末までそびえていましたが、明治三年(1870)の廃城で解体され、明治五年(1872)までに城内の多くの建物が失われます。今わたしたちが見上げている白い天守は、廃城から九十年ぶり、昭和三十五年(1960)に復興されたものです。とはいえ、天守を載せる石垣は江戸期のまま。幕末の小田原藩士も、この石垣の上に天守を仰いだはずです。


二の丸に構える銅門(あかがねもん)は、渡櫓門と高麗門を組み合わせた枡形の門で、扉に銅の装飾を施したことからこの名がつきました。こちらも明治に解体されましたが、平成九年(1997)に江戸期の姿へ復元されています。門をくぐって石段を登る道筋は、幕末の藩士が登城したそのままの動線。堅く折れ曲がる枡形に、東海道の押さえを担った城の緊張感がにじみます。
幕末の小田原藩——二転三転した藩論
幕末の小田原藩をひとことで言えば、「揺れ続けた藩」でした。譜代の名門でありながら、東海道の要衝という立地ゆえに、時流の波をまともにかぶったのです。慶応四年(1868)、鳥羽・伏見の戦いののち新政府軍が東へ迫ると、小田原藩は新政府に恭順し、箱根の関所を明け渡します。ところが、旧幕府軍の遊撃隊——人見勝太郎・伊庭八郎・林忠崇らが領内に入り込むと、藩は一転してこれに協力。しかし旗色を見て再び新政府側へ寝返りました。
その結果起きたのが、慶応四年五月、湯本の箱根山崎の戦いです。かつて味方した遊撃隊と、小田原藩は刃を交えることになりました。この戦いで遊撃隊の剣客伊庭八郎は左腕に重傷を負い、のちに隻腕(せきわん)の剣士として知られていきます。譜代でありながら二度も立場を変えた小田原藩の姿は、幕末を生きた小藩が背負った現実的な選択の、その苦さをよく物語っています。藩の歩みは、隣接する小田原藩のページもあわせてご覧ください。

報徳の教えを生んだ土地——二宮尊徳
小田原はまた、幕末の日本に大きな影響を与えた思想家を生んだ土地でもあります。二宮尊徳(金次郎)です。尊徳は小田原藩領の栢山(かやま)村に生まれ、荒れた農村を勤労・倹約・分度・推譲の「報徳仕法」で立て直していきました。その手法は小田原藩内にとどまらず、各地の疲弊した藩や村の復興に応用され、安政三年(1856)に没するまで、多くの人材を育てます。城址公園の一角には、尊徳を祀る報徳二宮神社が鎮座しています。刀や大砲だけでなく、地に足のついた「立て直しの思想」もまた、幕末の小田原が全国へ送り出したものでした。
城内の「小田原評定」——ただし、これは戦国の話
天守閣のなかに入ると、烏帽子(えぼし)姿の武将たちが車座になった、ユニークな人形展示があります。名づけて「小田原評定」。ただし正直に申し添えると、これは幕末ではなく戦国時代の話です。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の大軍に囲まれた北条氏が、城内で戦うか降るかを延々と議論し、結論が出ないまま滅亡した——その故事から、「いつまでも決まらない会議」の代名詞として「小田原評定」の言葉が生まれました。

面白いのは、それから約二百八十年後、同じ小田原の城で、幕末の藩論もまた恭順と抗戦のあいだで二転三転したことです。決めきれずに揺れる——その姿はどこか、戦国の「小田原評定」を思い起こさせます。時代を隔てて反復された“決断のむずかしさ”を、人形の輪に加わりながら思わず考えてしまいました。
現地を歩いて——妻と巡った小田原
復興天守そのものは新しくても、江戸期の石垣、復元された銅門、報徳の教え、そして箱根戦争の記憶と、小田原には幕末につながる手がかりがいくつも残っています。妻は白亜の天守を背にしきりに写真を撮り、私は石垣の反りや枡形の折れに見入る。同じ城でも見ているものが違うのが、二人旅の楽しさです。

箱根越えの前後にでも、東海道の要衝が背負った幕末の記憶を訪ねて、天守と銅門、そして報徳二宮神社をゆっくり巡ってみてください。
アクセス(所在地)
小田原城址公園は、神奈川県小田原市城内。JR・小田急・箱根登山鉄道などが乗り入れる「小田原駅」から徒歩約10分です。天守閣・銅門・報徳二宮神社はいずれも公園内の徒歩圏内にまとまっており、あわせて一〜二時間ほどで巡れます。
※本記事の史実は、小田原城・大久保家・箱根戦争・二宮尊徳・小田原評定などについて、現地案内および公開資料をもとに確認して記しています。幕末の小田原藩そのものについては小田原藩のページもあわせてご覧ください。

