吹上藩の歩み
天保十三年(1842年)、五井藩主だった「有馬氏郁」が下野吹上に移封され「吹上藩」が立藩されました。2代氏弘は「天狗党の乱」の鎮圧にあたり、「戊辰戦争」で新政府側に与して北関東や奥州に出兵しています。
明治二年(1869年)三月には、家老が若年の藩主「有馬氏弘」を欺いて軍費や戦死者の手当金を横領しているとして、家臣の一部が江戸藩邸を襲撃、家老らを殺害するという事件が起こりました。明治四年(1871年)七月の「廃藩置県」で吹上藩は廃藩となり栃木県に編入されました。
下野・吹上の有馬家
吹上藩は、下野国都賀郡吹上(現在の栃木県栃木市吹上町)に置かれた一万石の藩で、藩主は名門・有馬家でした。城を持たず陣屋を構える小藩ながら、江戸と日光・奥州を結ぶ交通の要地に近く、幕府にとって地の利のある土地を預かっていました。
天狗党鎮圧から戊辰へ
幕末の北関東では、水戸藩の尊皇攘夷派が挙兵した天狗党の乱が周辺を揺るがしました。吹上藩は、この争乱の鎮圧に動員されるなど、動乱への対応に追われます。やがて戊辰戦争では新政府軍に与し、時代の趨勢に従って家名を守りました。北関東の小藩が経験した幕末の緊張を、よく伝える一藩です。
陣屋は、代官所を建て直したものでした
吹上陣屋はもともと寛政五年に幕府の代官陣屋として建てられたもので、天保十三年に改修されて藩庁になりました。場所はいまの栃木市立吹上中学校のあたりです。昭和三十七年の報告では、上級の武士の屋敷跡は森に、下級の武士の屋敷跡は畑になっていたとあります。領地は下野の都賀・芳賀・河内の三郡十六村と、伊勢国にも分かれていました。
有馬氏弘は、養子に入って十三歳で藩主になりました
初代の有馬氏郁は文久二年十月十七日に三十二歳で亡くなり、実子の邦丸はまだ二歳でした。そこで同族の旗本三千五百石・有馬則篤の次男が養子に入って家督を継ぎます。これが二代・有馬氏弘で、嘉永三年の生まれですから、このとき十三歳です。同年十二月十六日に従五位下・兵庫頭となりました。元治元年の天狗党の乱では、筑波勢が太平山に入ったときに足利藩との折衝にあたっています。戊辰戦争では壬生藩の近郊で行われた安塚の戦いに加わり、藩士四名が戦死しました。奥州にも兵を出しています。明治二年六月二十三日に知藩事となり、賞典金二千両を受けました。
明治二年、江戸の藩邸で家老が殺されています
この藩の幕末でもっとも異例なのが、明治二年三月の江戸藩邸襲撃でした。家老が若い藩主を欺いて軍費と戦死者の手当金を横領しているとして、家臣の一部が藩邸を襲い、家老らを殺害しています。国立公文書館の『太政類典』には、この一件が「吹上藩鈴木錞次外九名同藩辻元宗之進外二名ヲ殺害スルノ罪ヲ処断シ有馬氏弘ニ閉門ヲ命ス」という件名で残っています。襲ったのは鈴木錞次ほか九名の十人、殺されたのは辻元宗之進ほか二名の三人だったことになります。同年八月の判決で八人が自裁、一人が斬首、一人が終身流刑となり、藩主の氏弘にも十日の閉門が命じられました。氏弘は五月十二日から九月二十八日まで謹慎しています。そして明治四年七月十四日の廃藩置県で藩は廃され、同年十一月十四日に栃木県へ入りました。
藩祖・有馬氏倫—吉宗の「両腕」のもう一人
吹上藩の有馬家の祖・有馬氏倫(うじのり)は、紀州藩主時代から徳川吉宗に仕えた側近です。吉宗が八代将軍になると江戸城へ従い、加納久通とともに御側御用取次を務めて、将軍と老中のあいだを取り次ぎました(八田藩)。二人は吉宗の「両腕」と呼ばれ、享保の改革を将軍の身近で支えています。氏倫はその功で享保十一年(1726)に一万石の大名となり、伊勢の西条に陣屋を置きました。
この有馬家は、筑後久留米藩主・有馬豊氏の三男・頼次に始まる、久留米有馬家の分家です(肥前日野江城主から日向延岡へ移った有馬家とは別の流れです)。頼次の子孫が紀州徳川家に仕え、その家から将軍の側近が出て、大名へと上ったのです。吉宗に従って江戸へ出た紀州の家臣たちの多くは旗本となりましたが、大名にまでなったのは加納家と有馬家などごくわずかでした。
伊勢から上総五井、そして下野吹上へ
有馬家はその後、天明元年(1781)に上総の五井へ陣屋を移し、天保十三年(1842)に下野の吹上へ移りました。伊勢、上総、下野と、紀州出身の家が関東各地を転々としたことになります。幕末の吹上藩は、天狗党の乱の対応や戊辰戦争の安塚の戦いを経験し、明治初めには藩内で家老が殺害される事件まで起きました。吉宗の側近の家は、徳川の時代の終わりに、小さな藩ゆえの激しい揺れを経験したのでした。

