西方藩/藤田家1万5千石:藤田信吉 大坂夏の陣の失態にて改易

【藩名】
西方藩

【説明】
藩祖は「藤田信吉」です。信吉は畠山重忠の子孫と言われ、北条家や「武田勝頼」の家臣として仕えました。武田勝頼が「織田信長」によって滅ぼされると、越後の「上杉景勝」の家臣となりました。信吉は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」直前に東軍(徳川家康)につくことを主張し孤立すると、上杉家から出奔しました。

そして徳川家臣として、戦後下野西方1万5000石を与えられ大名として列し、西方藩を立藩しました。慶長7年(1602年)、佐竹義宣が常陸水戸から出羽久保田藩へ減移封されたときには水戸城の接収を受け持ちました。

「大坂の陣」にも従軍したが、慶長20年(1615年)の夏の陣後に、「榊原康勝」の軍監を務めていたときの失態と戦功に対する不満からの失言等、諸々の理由を挙げられて改易され西方藩は廃藩となりました。

【西方城跡は、令和六年に国の史跡になりました】

藤田信吉の改易のあと、西方が誰の領地として幕末を迎えたのかは、確認できる資料を見つけられませんでした。上都賀郡一帯が日光神領・幕府領・旗本領・大名領の入り組みだったこと、明治のはじめに旧幕府領と旗本領が日光県へ編入されたことまでは分かります。

いっぽう城跡のほうは、近年に大きな評価を受けました。令和六年(2024年)十月十一日、西方城跡が国の史跡に指定されています。栃木市内では三件目です。指定の範囲は山頂部と山麓部の二つの城館を合わせたもので、南北の尾根に八つの郭を連ね、土塁・堀切・土橋で区切っています。西から北西にかけては土塁の石積みも残ります。西方氏から結城氏、そして藤田氏へと城主が替わるたびに構造が変わった跡が読み取れる点が、評価されました。なお藤田信吉が城の南東に築いたとされる新しい城は「二条城」と呼ばれます。

この西方町の金崎は、日光例幣使街道の金崎宿でした。例幣使街道は富田・栃木・合戦場・金崎と宿が続きます。

その街道すじの栃木町で、戊辰の前夜に事件が起きました。慶応三年(1867年)十一月二十九日、出流山満願寺での挙兵です。大政奉還のあと、相楽総三らが薩摩藩主夫人の安産祈願を名目に浪士を下野へ送り込み、竹内啓を隊長として百五十名ほどが立ちました。世に「出流天狗」と呼ばれます。浪士は栃木宿の脇本陣・押田屋に泊まり、足利藩の栃木陣屋に軍資金を求めました。

幕府は十二月十日、足利・館林壬生の各藩に取り締まりを命じます。出動した藩は総勢六十一に及びました。十二月十三日、岩舟での戦闘で浪士勢は壊滅し、十五日と十八日の二度に分けて佐野の河原で斬られます。竹内啓は十二月二十四日に松戸で処刑されました。この事件が江戸薩摩藩邸の焼き討ちを招き、戊辰戦争が始まる一因となります。

維新後、この地は日光県を経て栃木県となりました。明治四年に置かれた県庁は、宇都宮ではなく栃木町にありました。宇都宮へ移ったのは明治十七年一月二十一日のことです。

【場所・アクセス・地図】

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