五井藩/有馬家1万石:有馬氏郁 下野吹上藩へ移封のため廃藩

【藩名】
五井藩

【説明】
天明元年(1781年)11月28日、西条藩第5代藩主有馬氏恕は上総国市原郡五井に本拠を移し、有馬家は五井藩となりました。有馬家は定府が解かれて参勤交代が命じられ、翌天明2年(1782年)2月には初めての藩主領国入りが行われています。しかし間もなく、氏恕は天明3年(1783年)、23歳で死去しました。

氏恕の跡は末期養子の有馬氏保(越後長岡藩主牧野忠寛の次男)が継いだが、寛政2年(1790年)に29歳で死去しました。嗣子はなく、有馬久保(伊勢八田藩主加納久周の次男)が娘婿として迎えられる形で跡を継ぎました。久保以後は嫡男への家督相続が行われるが、幼少で短命の藩主が続きます。

第5代藩主有馬氏郁の代、天保13年(1842年)4月17日、下野吹上藩に転封となったため、五井藩は廃藩となりました。

【房総で最後の戦いが、この五井で起きました】

まず一つ整理します。有馬家は天保十一年(1840年)五月の時点で、上総国市原郡内の所領四千四百石余を下野と伊勢へ移されていました。そのうえで天保十三年に藩庁を移して吹上藩となります。ですから五井の地は吹上藩の飛地として残ったわけではなく、手放されています。幕末の五井が誰の領地だったかは、確認できる資料を見つけられませんでした。

五井陣屋の跡は市原市五井の字柳前にあり、いまのJR内房線と小湊鐵道の五井駅の敷地にあたるとされます。遺構は完全に消えており、石碑も説明板もありません。

ここからが本題です。慶応四年(1868年)閏四月七日、この地で五井戦争が起きました。房総で最後の本格的な戦闘です。

閏四月三日の市川・船橋の戦いに敗れた旧幕府軍が上総へ南下し、閏四月六日には新政府軍が千葉まで進みます。同じ日の夜、八幡のあたりで薩摩藩兵二人が殺されました。翌閏四月七日、両軍は養老川をはさんで向かい合います。

新政府軍は三方に分かれて進みました。右翼が岡山藩兵と大村藩兵、中央が薩摩・長州・大村、左翼が津藩兵です。大村藩兵が養老川を渡って左岸に達し、側面から突いたところで旧幕府軍は崩れました。正午過ぎには姉ヶ崎の東の高地が攻められます。ここは徳川義軍府の根拠地でしたが、守る側の砲がわずか二門だったのに対し新政府軍は砲兵が充実しており、砲弾が当たるたびに動揺し、午後二時過ぎに陣地は落ちました。

損害の差が、そのまま結果です。新政府軍は戦死一人・負傷二十八人ほど。旧幕府軍は戦死五十人から六十人、負傷百四十人から百五十人。精鋭とされた撒兵隊も戦意に乏しく、評判倒れだったと評されます。この戦い以降、義軍府の主力による反抗はできなくなりました。

義軍府の総大将だった福田八郎右衛門は、四月十二日に撒兵隊二千を率いて木更津へ入った人物ですが、戦のあとの動きについては記録が一切残っていません。なお請西藩の林忠崇が真武根陣屋を焼いて挙兵したのも、この閏四月三日のことでした。

【場所・アクセス・地図】

〒290-0081 千葉県市原市五井中央西2-1

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