群馬県庁の足もと、赤く色づいた木立の下に、堀の水を静かにたたえた一角がある。「前橋城跡」。かつてここには、利根川のほとりに築かれた前橋城が建っていた。一度は川に削られて捨てられ、そして幕末、生糸がもたらした富によって奇跡的に再建された—そんな数奇な運命をたどった城である。
前橋藩の成り立ち ― 酒井家の時代
前橋の地は、戦国時代には厩橋(まやばし)城と呼ばれ、上杉・武田・北条が激しく争った要衝だった。徳川家康の関東入りにともない、まず平岩親吉が入り、慶長六年(一六〇一)には川越から酒井重忠が入って、前橋藩(当初は厩橋藩)が本格的に始まった。以後、酒井家がおよそ百五十年にわたってこの地を治める。前橋は利根川の水運と、後に名を馳せる生糸の産地として、北関東でも屈指の豊かな城下町へと育っていった。
「下馬将軍」を出した名門・酒井家
前橋藩主・酒井家は、徳川譜代のなかでも別格の名門だった。二代・忠世は老中を務め、四代・忠清にいたっては大老として幕政を一手に握り、その権勢から「下馬将軍」と恐れられた。酒井家は加増を重ねて十五万石の大藩となる。しかし寛延二年(一七四九)、九代・忠恭のときに播磨姫路へ移封となり、入れ替わりに親藩の越前松平家(松平大和守家)の朝矩が十五万石で前橋へ入った。
利根川に削られた城 ― 前橋城の廃城
ところが前橋城には、宿命ともいえる弱点があった。すぐそばを流れる利根川である。元禄のころから水害が続き、川の侵食で城の土地そのものが崩れていった。宝永三年(一七〇六)には本丸の三層櫓が倒壊するにいたる。ついに明和四年(一七六七)、藩主・松平朝矩は前橋城を放棄し、居城を武蔵の川越城へ移した。前橋城は翌年廃城となり、前橋は川越藩の分領として、城のない町になってしまったのである。
幕末の奇跡 ― 生糸が再建した城
その前橋城を、ふたたび甦らせたのが幕末だった。安政六年(一八五九)の横浜開港により、日本の生糸は世界へ飛ぶように売れ、前橋の生糸商人たちは巨万の富を築いた。城を失ったことを長く無念に思っていた前橋の人々は、この富を献金として藩に差し出し、城の再建を願う。その額は七万七千両余にのぼったと伝わる。文久三年(一八六三)に再築が許され、慶応三年(一八六七)、ついに前橋城は再建を成し遂げた。藩の力ではなく、領民の生糸の富が城を建て直した—これは全国でも例のない、幕末ならではの物語である。
松平直克と政事総裁職 ― そして戊辰
この再建を主導した藩主・松平直克は、ただの大名ではなかった。彼は幕府の要職「政事総裁職」を務め、公武合体の推進に関わった中央政界の重要人物である。城の完成とともに本拠を川越から前橋へ戻し、前橋藩は再びこの地に返り咲いた。そして大政奉還ののち戊辰戦争が起こると、前橋藩はいち早く新政府へ恭順し、時代の転換を無事に乗り切った。生糸で栄えた前橋は、明治以降も日本の近代製糸業の中心地として発展していく。
県庁に建つ城跡碑を訪ねて
今、前橋城の本丸跡には群馬県庁が建ち、周囲には土塁と堀の一部が残る。紅葉に囲まれた城跡の碑の前に立つと、利根川に削られ、それでも生糸の富で甦ったこの城の、しぶとくも劇的な歩みが思い起こされる。城下の繁栄がそのまま城を建て直したという事実は、幕末という時代の活気と、この土地の底力を、静かに物語っているように感じられた。
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前橋城跡へのアクセス・地図
JR「前橋」駅からバスで約10分、群馬県庁一帯が前橋城の跡です。土塁・堀の一部と城跡碑が残ります。
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