栃木県佐野市には、名前は同じ「佐野城」でありながら、まったく性格の異なる二つの城跡があります。ひとつは駅のすぐ北に広がる城山公園(佐野城・春日岡城)。もうひとつは、そこから少し離れた植下町にひっそりと建つ堀田佐野城墟(ほったさのじょうきょ)の碑です。片方はわずか十数年で改易とともに消え、片方は幕末・明治維新まで大名の藩庁として生き延びました。今回はこの二つの城跡をめぐりながら、佐野の地に藩が生まれ、消え、また再興し、そして維新を迎えるまでの物語を深く追ってみます。
唐沢山城から春日岡へ ― 佐野氏と「駅前の城」
そもそも佐野氏は、関東屈指の山城として名高い唐沢山城(現在の唐沢山神社)を本拠とした名族でした。上杉謙信と北条氏という二大勢力に挟まれながら、たびたび攻められても落ちない堅城を頼りに戦国を生き抜いた一族です。
ところが関ヶ原の戦い(慶長五年・一六〇〇年)を経て時代が徳川のものになると、堅固すぎる山城はかえって警戒の対象となります。佐野信吉は山を下り、平地の春日岡――惣宗寺(今日の「佐野厄除け大師」の前身)が建っていた台地――に新たな居城を築くよう促されました。慶長七年(一六〇二年)に築城が始まり、慶長十二年(一六〇七年)に信吉が移って城下町の整備が進みます。これが佐野城(春日岡城)です。南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸を堀切で連ねた連郭式の平山城で、その縄張りは、いまJR両毛線・東武佐野線の佐野駅北口に接する城山公園として残っています。まさに「駅前の城」です。


わずか十数年で消えた城 ― 佐野信吉の改易
ところが、この城の寿命は驚くほど短いものでした。慶長十九年(一六一四年)、佐野信吉は実兄である富田信高(伊予宇和島藩主)の改易事件に連座し、三万九千石を没収されて改易となってしまいます。折しもこの年は大坂冬の陣が起こった年。江戸に近い大名への統制が一気に強まる、緊張した時期でした。築城からわずか十数年、城下町の整備もなかばで、佐野城はあっけなく廃城となったのです。
それでも城山公園を歩くと、深く切れ込んだ空堀や土塁、そして発掘で確認された本丸の石畳や石垣が、短命に終わった城の記憶をしっかりと今に伝えています。案内板によれば、本丸からは石畳の通路や細長い石垣、井戸跡までが見つかっており、近世城郭として本格的に造られようとしていたことがうかがえます。


百年余を経て ― 堀田家の佐野藩「立藩」
佐野の地が再び大名の城下町として歴史の表舞台に戻るのは、実に二百年以上ものちのことでした。その主役が堀田(ほった)家です。
じつは佐野には一度、短い「藩」の時代がありました。貞享元年(一六八四年)、大老・堀田正俊の三男である堀田正高が一万石で佐野に封じられ佐野藩が成立しますが、元禄十一年(一六九八年)に近江堅田へ移されて、佐野藩はいったん姿を消します。
それを再興したのが、同じ堀田家の堀田正敦(ほった まさあつ)でした。正敦は仙台藩主・伊達宗村の八男という大身の生まれで、近江堅田藩主から幕府に出仕し、松平定信に引き立てられて若年寄を四十二年もの長きにわたって務めた寛政の改革の重鎮です。単なる政治家ではなく、大部の系譜集『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務め、みずからは鳥類図譜『禽譜』『観文禽譜』を著した当代一流の博物家・学者でもありました。
その正敦が、文政九年(一八二六年)に下野安蘇郡植野村への陣屋替えを命じられ、文政十一年(一八二八年)に佐野陣屋(堀田佐野城)を築いて藩庁を構えます。翌文政十二年(一八二九年)の加増で石高は一万六千石となり、ここに佐野藩が再興されました。領地は下野・上野・近江の三国に分散し、堀田家は江戸に常駐する定府(じょうふ)大名で、参勤交代を行いませんでした。植下町の城墟碑に建つ案内板も、この城が文政十一年に築かれたことを刻んでいます。


幕末の佐野藩 ― 素早い恭順と版籍奉還
幕末の佐野藩を率いたのが、最後の藩主堀田正頌(ほった まさつぐ・摂津守)です。幕末の石高は一万三千石と伝わる小藩でした。
戊辰戦争が始まると、佐野藩の動きは素早いものでした。慶応四年(一八六八年)四月四日、いち早く新政府軍に武器を献上して恭順します。関東の小さな藩にとって、大きな戦火に巻き込まれる前に旗幟を鮮明にし、家名と領民を守ることは、きわめて現実的な選択だったといえるでしょう。同じ下野でも、実際に戦場となって攻防戦を強いられた城があったことを思えば、この判断の早さが佐野を戦禍から遠ざけたのかもしれません。
そして明治二年(一八六九年)、正頌は版籍奉還を行い、堀田佐野城は廃城となりました。城墟の中央に建てられた佐野城墟碑――その碑文は、案内板によれば旧藩の家老西村茂樹が撰したものだといいます。西村茂樹といえば、維新後に明六社へ加わり、日本弘道会を創設した著名な道徳思想家。小さな佐野藩の背後に、こうした一流の知性がつながっていたことは、この城跡の意外な奥行きを感じさせます。


二つの城跡を歩いて
駅に隣接した城山公園の佐野城は、大名の改易とともにわずか十数年で消えた城。少し離れた植下町の堀田佐野城墟は、寛政改革の重鎮が再興し、幕末・維新まで続いた藩の城。ひとつの「佐野城」という名のもとに、まったく性格の異なる二つの歴史が眠っているのが、この町のおもしろさです。片方は空堀と石垣だけを残して静かに、もう片方は一基の碑となって、それぞれの終わり方を今に伝えていました。城が消えても、藩が消えても、土地の記憶はこうして残るのだと、あらためて感じた現地取材でした。
佐野城跡(城山公園)へのアクセス・地図
佐野城跡は、JR両毛線・東武佐野線の佐野駅北口のすぐそば、城山公園として自由に見学できます。堀田佐野城墟の碑は市街地南部の植下町にあります。
▼ 佐野藩の歴代藩主や石高など、藩の詳しいデータはこちら
佐野藩の基礎データを見る(藩ページ)

