文久3年5月10日(1863年6月25日)の夜、関門海峡の九州側、豊前の田ノ浦沖に、一隻のアメリカ商船が錨をおろして潮を待っていました。ペンブローク号です。その暗い海に向かって、夜ふけから翌朝にかけて、下関の砲台と長州藩の軍艦が突然、大砲を撃ちはじめました。この日は、幕府が朝廷に「外国を打ち払う」と約束した、攘夷の期限の日でした。
長州藩はこのあと、海峡を通る外国の船を次々と砲撃します。しかし1年あまりのち、海峡には英・仏・蘭・米の4か国の軍艦17隻がならび、長州藩の砲台は数日で占領されてしまいました。外国を打ち払おうとした長州藩が、外国の力を思い知り、生まれ変わるきっかけとなった戦いです。この記事では、その2年にわたる戦いを進軍図とイラストで解説します。

下関戦争(馬関戦争)とは?ひとことで言うと
下関戦争とは、文久3年に長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、その報復として米仏の軍艦、さらに翌年の元治元年に英仏蘭米の四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃・占領した戦いです。長州藩はこの敗北で攘夷をやめ、開国と軍の近代化へ大きく方向を変えました。
| 日時 | ①文久3年5月10日〜6月5日(1863年6月25日〜7月20日) ②元治元年8月5日〜8月8日(1864年9月5日〜9月8日)、8月14日講和 |
|---|---|
| 場所 | 長門国赤間関(馬関)とその周辺の関門海峡(現在の山口県下関市) |
| 長州藩 | 長州藩・長府藩の砲台と軍艦、奇兵隊など |
| 外国側 | ①アメリカ・フランスの軍艦(オランダ艦も砲撃を受けた) ②イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊 |
| 兵力(おおよそ) | ②連合艦隊 軍艦17隻・約5000人(上陸部隊などを約2000人とする資料も)/長州藩 約2000人 |
| 戦死者(わかれば) | ①ワイオミング号との戦いで長州側に約40人の死者が出たとされる ②連合軍 戦死12人・負傷50人ほど/長州藩 戦死18人・負傷29人ほど(資料により異なる) |
| 結果 | 外国側の勝利。砲台は破壊され大砲は持ち去られた。高杉晋作が講和を結んだ。賠償金はのちに幕府と4か国のあいだで300万ドルと決まり、幕府が負うことになった |

なぜ下関で戦いが起きたのか
「5月10日に攘夷を行う」という約束
このころの京都では、外国を打ち払うべきだという「攘夷」の考えが強まっていました。その中心にいたのが長州藩です。文久3年、朝廷にせまられた将軍・徳川家茂は、5月10日をもって攘夷を実行すると約束しました。
ただし幕府は、本気で外国と戦うつもりはありませんでした。同じ5月には、生麦事件の賠償金をイギリスに支払っているほどです。ところが長州藩は、この約束を文字どおりに受けとめ、期限の日に本当に外国船を撃つ準備をしていました。久坂玄瑞ら攘夷派の若い藩士たちが、その先頭に立っていました。

船の通り道・関門海峡
本州と九州の間にある関門海峡は、いちばん狭いところで幅700メートルほどしかありません。潮の流れが速く、船は潮の向きを待ってから通るのがふつうでした。そして長崎と横浜・上海を行き来する外国船にとって、ここは大切な近道でした。
長州藩と、その支藩である長府藩は、海峡ぞいの亀山・前田・壇ノ浦などに砲台を築き、大砲をならべていました。狭い海峡を通る船は、どうしても砲台のすぐ近くを通らなければなりません。下関は、攘夷を実行するには「うってつけ」の場所だったのです。
禁門の変で傷ついたところへ
2度目の戦いが起きた元治元年(1864年)8月、長州藩は苦しい立場にありました。前年の八月十八日の政変で京都を追われ、この年の7月19日には京都に攻めのぼった禁門の変で大敗していたのです。幕府は長州を討つ準備を始め、長州藩は「朝敵」とされました。四国連合艦隊がやって来たのは、その直後のことでした。
両軍の顔ぶれと兵力
長州藩
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長州藩 | 毛利家 36万9千石 |
攘夷の中心。下関の砲台と軍艦(庚申丸・壬戌丸・癸亥丸など)で外国船を砲撃。元治元年には約2000人で守った |
| 長府藩 | 毛利家 5万石 |
長州藩の支藩。藩主・毛利元周が亀山砲台を築き、前田などの砲台も長府藩領にあった |
| 奇兵隊 | 長州藩の諸隊 | 文久3年6月、高杉晋作が武士以外の者も加えて結成。元治元年には総管・赤禰武人らのもとで戦った |
外国側(米仏・四国連合艦隊)
| 部隊 | 国・指揮官 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| アメリカ | ワイオミング号 マクドゥーガル艦長 |
文久3年6月1日、単独で海峡に入り長州の軍艦を撃沈。元治元年は借り上げた蒸気船1隻で参加 |
| フランス | ジョレス提督 | 文久3年6月5日、軍艦2隻で砲台を攻撃し陸戦隊を上陸させる。元治元年は軍艦3隻 |
| オランダ | メデューサ号など | 文久3年5月26日にメデューサ号が砲撃を受ける。元治元年は軍艦4隻 |
| イギリス | キューパー提督 | 元治元年の連合艦隊の主力で軍艦9隻。公使オールコックが4か国に呼びかけた |
両軍の条件を比べる(元治元年)
| 長州藩 | 四国連合艦隊 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 約2000人 | 軍艦17隻・約5000人(資料により差あり) |
| 武器 | 青銅製の旧式の大砲が中心。弾が届く距離が短い | アームストロング砲など新式の艦砲。射程が長く命中しやすい |
| 指揮官 | 赤禰武人(奇兵隊総管)ら。主力は禁門の変で失っていた | イギリスのキューパー提督が全体を率いる |
| 地の利 | 狭い海峡を見下ろす砲台。ただし陸からの攻撃には弱い | 艦の動きが自由で、好きな場所に兵を上陸させられた |
| そのときの状況 | 禁門の変の直後で、幕府からも討たれようとしていた | 前年からの海峡封鎖で貿易に損害を受け、懲らしめを決意 |
戦いの流れ

文久3年5月10日〜26日:三度の砲撃
攘夷の期限の5月10日の夜ふけ(日付が11日に変わるころ)、長州藩は、海峡の向こう岸の田ノ浦沖(いまの北九州市門司区)に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号に砲撃を始めました。砲台に加え、軍艦の庚申丸と癸亥丸も攻撃に加わります。不意をつかれたペンブローク号は、大きな被害を受けずに周防灘の方へ逃げ去りました。長州藩の士気は大いに上がったといわれます。
続いて5月23日にはフランスの通報艦キャンシャン号、5月26日にはオランダの軍艦メデューサ号が砲撃を受けました。メデューサ号は多くの砲弾を受け(命中した数は17発とも30発以上ともいわれます)、死傷者を出しながらも撃ち返しつつ海峡を通りぬけました。わずか半月あまりの間に、アメリカ・フランス・オランダの3か国の船を撃ったことになります。

6月1日:ワイオミング号の報復
アメリカ公使の抗議を受け、横浜にいたアメリカ軍艦ワイオミング号が下関にやって来ました。6月1日、ワイオミング号はたった一隻で海峡に入り、砲台からの砲撃をかいくぐりながら、港にいた長州藩の軍艦に向かっていきます。
途中で浅瀬に乗り上げる場面もありましたが、ワイオミング号は大口径の大砲で反撃し、庚申丸と壬戌丸を沈め、癸亥丸にも大きな損害を与えました。長州側には約40人の死者が出たとされ、ワイオミング号の側でも4人が亡くなりました。わずか1時間あまりの戦いで、長州藩の海軍はほとんど力を失ってしまったのです。

6月5日:フランス陸戦隊の上陸
4日後の6月5日には、フランスの軍艦セミラミス号とタンクレード号がやって来ました。2隻は前田や壇ノ浦の砲台を砲撃して沈黙させると、約250人の陸戦隊を前田村に上陸させます。陸戦隊は砲台を占領して大砲を使えなくし、周りの民家にも火を放って引き上げました。
この敗北を見た藩は、下関の守りを高杉晋作にまかせました。高杉は6月、下関の商人・白石正一郎の屋敷で、武士だけでなく農民や町人も加えた新しい部隊「奇兵隊」をつくります。長州藩は砲台を直し、対岸の小倉藩の領地の一部にまで砲台を築いて、海峡の封鎖を続けました。

元治元年8月5日:17隻の艦隊が砲撃を開始

海峡の封鎖が1年以上続き、貿易に大きな損害を受けたイギリスは、フランス・オランダ・アメリカに呼びかけて連合艦隊をつくりました。海峡を自由に通れるようにするだけでなく、横浜の港を閉じようとしていた幕府に、外国の力を見せつけるねらいもあったと考えられています。このころ、イギリスに留学していた伊藤俊輔(のちの伊藤博文)と井上聞多(のちの井上馨)は、戦争を止めようと急いで帰国し、藩に攘夷をやめるよう説きましたが、受け入れられませんでした。
元治元年8月5日の午後、英仏蘭米の軍艦17隻が海峡に並び、いっせいに砲撃を始めました。長州藩の砲台も撃ち返しましたが、旧式の大砲は射程も命中の正確さもおとり、弾の多くは艦隊に届きませんでした。反対に連合艦隊の砲弾は正確に砲台をとらえます。前田や壇ノ浦の砲台は、夕方までにほとんど沈黙してしまいました。

8月6日〜7日:陸戦隊が砲台を占領
翌8月6日、連合軍は各国の陸戦隊を上陸させ、前田の砲台を占領しました。陸戦隊は大砲を運び出し、砲台を壊していきます。長州藩の兵や奇兵隊は山の方から反撃し、激しい撃ち合いになりましたが、新式の小銃を持つ連合軍を押し返すことはできませんでした。
8月7日から8日にかけては、彦島の砲台も攻撃を受けました。長州藩の大砲は次々と奪われ、のちに戦利品として各国に持ち帰られます。

8月8日〜14日:高杉晋作の講和交渉
もはや勝ち目がないと考えた藩は、8月8日に停戦の使者を送りました。講和の代表に選ばれたのは、禁門の変のあと謹慎させられていた高杉晋作です。高杉は家老「宍戸刑馬」と名乗り、イギリスの旗艦ユーライアラス号に乗りこみました。通訳として伊藤俊輔が付きそい、イギリス側の通訳はアーネスト・サトウでした。サトウは、そのときの高杉の堂々とした態度を回想録に書き残しています。

話し合いは数回にわたり、8月14日に講和が成立しました。外国船が海峡を自由に通れるようにすること、石炭・食料・水などを売りわたすこと、天気の悪いときには船員の上陸を認めること、砲台を新しく築いたり直したりしないこと、そして賠償金を支払うこと、などが主な内容とされます。賠償金の額はこのときには決まらず、長州藩は「幕府の命令に従っただけ」と主張しました。そのため、9月22日(1864年10月22日)に幕府と4か国のあいだで取り決めが結ばれ、賠償金300万ドルを幕府が支払うことになりました。また、このとき連合国が彦島を借りたいと求め、高杉がそれを断ったという話も伝わっていますが、これはのちの伊藤博文の思い出話がもとになったもので、当時の記録でははっきり確かめられません。

戦いのあと
攘夷をやめた長州藩
下関戦争で外国の圧倒的な力を知った長州藩は、しだいに武力で外国を打ち払う攘夷から離れ、むしろ外国から学んで軍を強くする道を選んでいきます。ただし、敗戦ですぐに藩の考えがまとまったわけではありません。戦ったイギリスとの関係も、このあと近づいていきます。藩の中では、いったんは幕府に従う派が力を持ちますが、高杉晋作が功山寺で兵を挙げ、大田・絵堂の戦いを経て、ふたたび倒幕の道へ進みました。
慶応2年(1866年)1月には、かつて対立していた薩摩藩と薩長同盟を結びます。そして同じ年の四境戦争(第二次長州征伐)では、新式の武器をそろえた長州藩が幕府軍を打ち破りました。下関で負けたことが、長州を強くするきっかけになったのです。
300万ドルの賠償金と、海を渡った大砲
300万ドルという賠償金は、幕府にとって大きな負担になり、幕府が半分の150万ドルを払ったところで倒れ、残りは明治政府が引き継いで払いました。のちにアメリカは、明治16年(1883年)に受け取った分のうち約78万5千ドルを日本に返しています。
連合軍が持ち去った長州藩の大砲は、いまも外国に残っているものがあります。そのうちフランス・パリのアンヴァリッド軍事博物館にあった1門が里帰りし、下関市立歴史博物館で展示されています。下関のみもすそ川公園には、長州藩の大砲を再現した砲も並べられています。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
下関戦争を調べていると、長州藩の若者たちのまっすぐさと、その危うさの両方を感じます。「攘夷の期限が来たから撃つ」と、期限の日に合わせて本当に外国船への砲撃にふみ切った藩はほかになく、無謀でもありました。それでも、自分たちの信じたことを本当にやってみた藩だからこそ、負けたときに学んだことも大きかったのだと思います。
私が胸に残るのは、講和の席に高杉晋作が立ち、通訳として伊藤俊輔が付きそっていた場面です。数年前まで「外国を打ち払え」と考えていた若者たちが、今度は外国と向き合って交渉し、藩の未来を守ろうとしていました。考えを改めることは、負けを認めることでもあります。それをためらわなかったところに、長州藩の強さがあったように感じます。
そして、生麦事件の賠償金が支払われた翌日に、下関で外国船への砲撃が始まったというめぐり合わせも印象的です。薩摩も長州も、外国と戦って負けたことで目を覚まし、やがて手を結んで新しい時代を開きました。遠回りに見える道が、実は近道だったのかもしれない。そんなことを考えさせられる戦いです。
現地を歩く ― 下関戦争の史跡
- 前田台場跡(山口県下関市前田):フランス陸戦隊、そして四国連合艦隊に占領された砲台の跡。海峡から周防灘まで見わたせる
- 亀山八幡宮・亀山砲台跡(山口県下関市中之町):長府藩主・毛利元周が砲台を築いた場所。文久3年の最初の砲撃が行われた
- みもすそ川公園(山口県下関市みもすそ川町):壇ノ浦砲台があったあたり。長州藩の大砲を再現した砲が並ぶ
- 下関市立歴史博物館(山口県下関市長府):パリのアンヴァリッドから里帰りした長州藩の大砲を展示(展示替えがあるので、出かける前に確認を)
- 白石正一郎旧宅跡(山口県下関市竹崎町):高杉晋作が奇兵隊を結成した屋敷の跡
あわせて読みたい
参考にした資料
- 日本遺産「関門ノスタルジック海峡」構成文化財 前田台場跡
- 山口県文書館 展示資料「四国艦隊下関砲撃事件」
- ニッポン旅マガジン「亀山八幡宮」「高杉晋作顕彰碑」
- nippon.com「アーネスト・サトウの見た幕末」関連記事
- Wikipedia英語版 “Shimonoseki campaign” “Battle of Shimonoseki Straits”
- アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


