明治2年4月13日(1869年5月24日)の昼すぎ、蝦夷地(えぞち)の山あいを流れる川のほとりで、銃声がひびきはじめました。江差(えさし)から箱館(はこだて)へ向かう山道の途中、「二股(ふたまた)」とよばれる谷の分かれ目です。けわしい台場山(だいばやま)の斜面には、土をつみあげた胸壁(きょうへき)がいくつも並び、その後ろで旧幕府軍の兵が銃をかまえていました。指揮をとっていたのは、元新選組副長の土方歳三(ひじかた としぞう)です。
新政府軍は何度も前に出ようとしましたが、胸壁から放たれる銃弾に押し返されます。夜になると冷たい雨が降り出し、戦いは翌朝まで続きました。そして10日後、新政府軍はもう一度大きな攻撃をしかけますが、ここでも二股口を抜くことはできませんでした。箱館戦争のなかで、旧幕府軍がもっともよく戦ったとされるのがこの二股口の戦いです。この記事では、その攻防を進軍図とイラストで解説します。

二股口の戦いとは?ひとことで言うと
二股口の戦いは、箱館をめざして江差から山道を進んできた新政府軍を、土方歳三が率いる旧幕府軍が台場山の胸壁で2度にわたって食い止めた戦いです。しかし、ほかの道が破られたため、土方隊は勝ったまま陣地を捨てて五稜郭(ごりょうかく)へ引き上げることになりました。
| 日時 | 明治2年4月13日〜14日(第1次)、4月23日〜25日(第2次) |
|---|---|
| 場所 | 蝦夷地・渡島(おしま)の二股口、台場山周辺(現在の北海道北斗市(ほくとし)村山付近) |
| 旧幕府方 | 箱館政権(榎本武揚らの旧幕府軍)。指揮は陸軍奉行並・土方歳三。伝習歩兵隊・伝習士官隊・衝鋒隊(しょうほうたい)など |
| 新政府軍 | 長州藩・福山藩・松前藩・弘前藩などの兵。のちに薩摩藩・水戸藩などの増援。軍監は駒井政五郎(こまい まさごろう) |
| 兵力(おおよそ) | 旧幕府方 約130〜300人(第1次の守りは130人ほどとする記録があり、増援を合わせた土方隊は300人ほどとされる)/新政府軍 先鋒約600人、のちに増援 |
| 戦死者 | 旧幕府方にも死傷者は出たが、新政府軍より少なかったとされる。両軍の正確な数はわかっていない。新政府軍は軍監・駒井政五郎らが戦死 |
| 結果 | 旧幕府方が2度とも撃退。ただし矢不来(やふらい)の敗戦で退路が危うくなり、土方隊は五稜郭へ撤退 |

なぜ二股口で戦いが起きたのか
春の雪どけと新政府軍の乙部上陸
明治元年の冬、榎本武揚(えのもと たけあき)らの旧幕府軍は箱館の五稜郭に入り、蝦夷地に独自の政権をつくりました。新政府はこれを認めず、雪がとける春を待って大軍を送りこみます。3月には旧幕府軍が新政府の軍艦を奪おうとした宮古湾海戦がありましたが、失敗に終わりました。
そして明治2年4月9日、新政府軍の第一陣が日本海側の乙部(おとべ)に上陸しました。乙部から江差に入った新政府軍は、そこから部隊を分けて箱館をめざします。海ぞいに南へ回って松前(まつまえ)を攻める部隊、木古内(きこない)方面へ進む部隊、そして山を越えてまっすぐ大野(おおの)・箱館へ抜ける山道(江差山道)を進む部隊です。この山道の途中にあるのが二股口でした。
旧幕府軍は、それぞれの道に守りの兵を置きました。松前には松前城を守る部隊、木古内には大鳥圭介(おおとり けいすけ)が率いる部隊、そして二股口には土方歳三の部隊です。どれか一つでも破られれば、新政府軍は箱館へ向かって進むことができます。三つの道の守りは、互いに背中をあずけ合う関係にありました。

箱館への近道をふさぐ台場山
江差から箱館への山道は、三つの道のうちいちばん近い道でした。ここを破られれば、新政府軍は一気に大野の平野へ出て、五稜郭の背後にせまることができます。そこで旧幕府軍は、この道の守りを土方歳三にまかせました。
土方は4月10日ごろに兵を率いて二股口に着き、川のほとりにそびえる台場山に本陣を置きました。山の斜面や尾根には、土を盛り上げて弾をよける胸壁をいくつも築きます。その数は16か所とも13か所ともいわれます。山道は細く、両側は森と急な斜面です。攻める側は道にそって縦に長く並ぶしかなく、守る側は高い所から狙い撃ちできる地形でした。

両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府方
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 伝習歩兵隊 | 旧幕府陸軍 (藩ではない) |
フランス式の訓練を受けた洋式歩兵。胸壁にこもって射撃を続けた |
| 伝習士官隊 | 旧幕府陸軍 (藩ではない) |
滝川充太郎(たきがわ みつたろう)が率いる。第2次の戦いで敵陣に突撃した |
| 衝鋒隊 | 旧幕府の歩兵 (藩ではない) |
古屋佐久左衛門がつくった部隊。台場山の守りについた |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 長州藩 | 毛利家 36万9千石 |
新政府軍の中心。軍監・駒井政五郎が指揮をとり、戦死した |
| 福山藩 | 阿部家 10万石 |
天狗山(てんぐやま)の陣地を守り、第2次の戦いのきっかけの場所になった |
| 松前藩 | 松前家 3万石格 |
蝦夷地を追われた藩。道案内もかねて先鋒に加わった |
| 弘前藩 | 津軽家 10万石 |
乙部・江差に上陸した第一陣に加わった |
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
第1次の戦いにも一部が加わり、4月16日に江差へ上陸した増援でさらに兵を増やした |
| 水戸藩 | 徳川家 35万石 |
増援として二股口の攻撃に加わった |
このほか、徳山藩・大野藩の兵も江差に上陸したとされています。
両軍の条件を比べる
| 旧幕府方(土方隊) | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 約130〜300人 | 先鋒約600人。のちに増援が加わる |
| 武器 | エンフィールド銃などの洋式小銃。弾薬をたっぷり用意 | 洋式小銃。数では上まわる |
| 指揮官 | 土方歳三。現場に立って兵をはげました | 軍監・駒井政五郎ら |
| 地の利 | 高い台場山と胸壁。守るのに有利 | 細い山道を下から攻め上がる。不利 |
| 補給 | 五稜郭から近く、弾薬を運びこめた | 江差から山道を運ぶ必要があった |
戦いの流れ

4月13日昼:天狗山から台場山へ攻めかかる
江差を出た新政府軍の先鋒は、山道を東へ進み、二股口の手前にある天狗山に陣をしきました。そして4月13日の昼ごろ、川をはさんだ向こうの台場山へ攻撃をはじめます。
新政府軍の兵は木のかげや岩のかげに身をかくしながら前に出ますが、胸壁の後ろからの射撃は正確でした。土方隊の兵は交代しながら撃ち続け、敵を近づけません。新政府軍はなんども突撃を試みましたが、そのたびに押し返されました。

13日夜:雨の中の撃ち合い
日がしずむころから雨が降り出しました。当時の小銃は、雷管(らいかん)という小さな火薬の部品で弾を発射します。これがぬれると弾が出ません。土方隊の兵は弾薬箱を上着でおおって雨から守り、しめった雷管はふところに入れて乾かしながら使ったと伝えられています。
撃ち続けるうちに銃身が熱くなりすぎるので、桶に水をくんでおき、銃身を冷やしながら撃ったという話も残っています。戦いはおよそ16時間におよび、この間に旧幕府方が撃った弾は約3万5千発にのぼったともいわれます(弾の数は後の書物で広まった数字で、確かな出どころははっきりしません)。

14日朝:新政府軍の退却
夜が明けた4月14日の朝7時ごろ、新政府軍はついに攻撃をあきらめ、後方の稲倉石(いなくらいし)まで引き上げました。土方隊は二股口を守りきったのです。
戦いのあと、土方は兵に酒をふるまってねぎらったと伝わります。酔って気がゆるまないよう一杯だけにした、とも語られますが、第1次と第2次のどちらのあとの話なのかは、記録によってちがいがあります。一方で、新政府軍は別の道から回りこむ道を切り開く計画を立てるなど、次の攻撃にそなえていました。

4月23日:増援を得た新政府軍の再攻撃
4月16日、新政府軍の増援が江差に上陸し、薩摩藩や水戸藩の兵が二股口に向かいました。旧幕府方も伝習隊などの増援を送り、台場山の守りを厚くします。
4月23日、旧幕府方の偵察の小隊が天狗山の福山藩の陣地に近づいたことから、2度目の大きな戦いがはじまりました。夜になると、新政府軍が鈴を鳴らすなどして、周りを囲まれたかのように見せかけたともいわれます。動揺しかけた兵を、土方が落ち着かせたという話が残っています。この戦いのさなか、新政府軍の軍監・駒井政五郎が撃たれ、まもなく亡くなりました。

24日未明:伝習士官隊の突撃
撃ち合いは夜を通して続きました。4月24日の未明、滝川充太郎が率いる伝習士官隊が胸壁を飛び出し、新政府軍の陣地へ突撃をしかけます。思いがけない反撃に新政府軍は混乱し、陣地の一部を明けわたして下がりました。
夜通しの撃ち合いで疲れていたのは、守る側も攻める側も同じでした。守るだけでなく打って出たこの突撃は、新政府軍の勢いをくじいたといわれます。ただし新政府軍もすぐに撃ち返し、伝習士官隊にも多くの死傷者が出て胸壁へ引き返したとする記録もあります。一方的な勝ちではなく、ぎりぎりの攻防が続いたのです。

25日以降:守りきった二股口と、矢不来の敗戦
4月25日ごろ、新政府軍は二股口を正面から破ることをあきらめて退きました(退いた日は24日夜とも26日朝ともいわれ、記録によって少しちがいます)。台場山の土方隊は、2度の大攻撃をどちらも跳ね返したことになります。
ところが、ほかの道では旧幕府軍が負け続けていました。松前城はすでに取りもどされ、木古内も破られます。そして4月29日、海ぞいの矢不来の陣地が新政府軍に突破されました。矢不来を抜かれると、新政府軍は箱館の近くまで進めます。二股口の土方隊は、山の中で後ろの道を断たれ、取り残されるおそれが出てきました。土方隊は五稜郭へ引き上げるよう命じられ、守りきった陣地を捨てて山を下りました。撤退の日は、4月30日の早朝とも5月1日ともいわれ、資料によって少し差があります。
新政府軍の側から見ると、二股口は正面から攻めても破れない「固い扉」でした。そこで新政府軍は、扉をこじ開けるのではなく、ほかの道を回って扉の裏側にまわりこむ形で、二股口を無力にしたのです。二股口という一つの戦場では勝っていたのに、戦争全体では追いつめられていた。土方隊が退かなければならなかったのは、この「場所での勝ち」と「全体での負け」のずれによるものでした。

戦いのあと
箱館総攻撃と土方の最期
五稜郭にもどった土方隊を待っていたのは、新政府軍による箱館総攻撃でした。5月11日、新政府軍は海と陸の両方から箱館に攻めこみます。土方は、敵に囲まれた弁天台場の味方を助けようと出撃し、一本木関門のあたりで銃弾を受けて戦死しました。二股口の戦いから、わずか半月ほどあとのことです。5月18日には榎本武揚らが降伏し、箱館戦争は終わりました。
大野に残る墓と陣地のあと
二股口の周辺や大野の町には、この戦いのあとが今も残っています。台場山には胸壁や散兵壕(さんぺいごう)のあとが土の高まりとして残り、「二股口古戦場」として説明板が立っています。大野の寺や墓地には、新政府軍の戦死者の墓や、名前のわからない戦死者をとむらう碑があります。旧幕府軍が作戦本部にしたと伝わる市渡(いちのわたり)の稲荷神社には、社殿は建て直されたものの、当時からの石の鳥居が残っています。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
二股口の戦いを調べていて感じるのは、地形をよく読み、準備をととのえた守りがどれほど強いかということです。数で上まわる新政府軍を、少ない兵で二度も追い返せたのは、台場山という場所選びと、胸壁を築いて弾薬をたくわえた準備のたまものだったと思います。
それと同時に、一か所で勝っても戦争全体には勝てないという、きびしい現実も胸に残ります。土方隊は負けたわけではないのに、ほかの道が破られたために陣地を捨てなければなりませんでした。勝ったまま退くとき、兵たちはどんな気持ちで山を下りたのだろうと考えてしまいます。
また、雨の夜に弾薬を上着でおおい、雷管をふところで乾かしたという話には、兵の一人ひとりが自分の役目を理解していたようすがうかがえます。指揮官が先頭に立ち、戦いのあとには酒を一杯ずつふるまって兵をねぎらう。土方が兵から信頼されていた理由が、こうした小さな話の中に見える気がします。
京都では剣で名をあげた新選組の副長が、最後には洋式の銃と胸壁で戦う指揮官になっていたことにも、時代の大きな変わり目を感じます。鳥羽伏見で銃と大砲の力を思い知らされた土方が、そこから学んだものを蝦夷地で生かしたのだとすれば、二股口は土方歳三という人の「最後の到達点」だったのかもしれません。
現地を歩く ― 二股口の戦いの史跡
- 二股口古戦場(台場山)(北海道北斗市村山):国道227号ぞいにある古戦場。胸壁や塹壕のあとが残り、説明板が立っています。遺構は山の中の急な斜面にあり、クマが出ることもあるので、奥まで歩くときは装備と情報をととのえて出かけましょう
- 市渡の稲荷神社と石鳥居(北海道北斗市市渡):旧幕府軍の作戦本部になったと伝わる場所。いまの社殿は後に建て直されたものですが、戊辰戦争より前からある石鳥居が残ります
- 光明寺(北海道北斗市・大野地区):新政府軍と旧幕府軍の戦死者の墓があるお寺です
- 矢不来台場跡(北海道北斗市矢不来):二股口からの撤退の原因になった矢不来の戦いの陣地あとです
- 五稜郭跡(北海道函館市五稜郭町):土方隊が引き上げた箱館政権の本拠地。国の特別史跡です
- 土方歳三最期の地碑(北海道函館市若松町):一本木関門のあたりに建てられた碑です
あわせて読みたい
- 箱館総攻撃とは?土方歳三が一本木関門で散った明治2年5月11日
- 木古内・矢不来の戦いとは?海から撃たれた旧幕府軍
- 峠下・七重村の戦いとは?箱館戦争のはじまりと五稜郭の無血入城
- 箱館戦争
- 宮古湾海戦
- 松前城・館城の戦い
- 箱館湾海戦
- 流山の陣
- 鳥羽伏見の戦い
- 長州藩/福山藩/松前藩/弘前藩/薩摩藩/水戸藩
参考にした資料
- 北斗市大野地区の郷土史資料「箱館戦争と大野」
- 石井淳平「北斗市二股台場と函館市川汲台場」(第3回日本災害・防災考古学会研究会資料・予稿集)の要旨
- 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』「土方歳三」の項
- 二股口古戦場の現地訪問記・解説記事(北斗市村山の台場山の胸壁跡と稲荷神社の紹介)
- 二股口の戦いの経過を解説した歴史解説記事(兵力・弾数・戦闘時間の記述)
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


