弘前藩(津軽藩)/津軽家10万石:津軽承昭 早くから新政府軍につくも各地で旧幕府軍に連戦連敗した弘前藩

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弘前藩(津軽藩)の歩み

明治元年(1868年)の「戊辰戦争」では、当初「奥羽越列藩同盟」に属したが後に脱退。新政府軍に与したが秋田戦線では庄内藩に敗北し、野辺地の戦闘でも盛岡藩に敗北し、さらに蝦夷地で旧幕府軍に敗北するなど各地で負け続けるが戦後に新政府より一万石を加増されました。

弘前藩(津軽藩)/場所・アクセス・地図 津軽家10万石:津軽承昭 早くから新政府軍につくも各地で旧幕府軍に連戦連敗した弘前藩【幕末維新写真館】

幕末の藩主「津軽承昭」の実家である肥後藩はこの惨状を見てたまらず援軍を送ったとされています。明治四年(1871年)七月、廃藩置県により弘前県となり、同年九月には黒石県、七戸県、館県(現在の北海道)、斗南県、八戸県を併合し、県庁を青森に移転した上で青森県と改称されました。

津軽十万石の弘前藩

弘前藩は、陸奥国津軽(現在の青森県弘前市)に置かれた十万石の藩で、桜の名所として名高い弘前城を居城としました。藩主の津軽家は、戦国以来この津軽の地を治めてきた大名で、本州最北の外様大藩として独自の存在感を保っていました。

盛岡藩が秋田に攻めこみ、十二所・扇田を破って大館城を落とした戦いは「大館城の戦いとは」で、進軍図とイラストつきで解説しています。

同盟を離れ、新政府へ

戊辰戦争にあたって弘前藩は、当初は奥羽越列藩同盟に加わりましたが、やがて同盟を離れて新政府側につきます。以後は東北各地で旧幕府方の勢力と戦いを交えることになりました。北の大藩として難しい立場に立たされながら、時流を見極めて進退を定めた藩です。

弘前藩をもっと深く—二百七十年つづいた津軽と南部

弘前藩の幕末を理解するには、戊辰戦争の年表を追うより先に、この藩が誰と仲が悪かったかを知っておく必要があります。相手は盛岡藩、南部家です。

独立が生んだ遺恨

津軽為信はもともと南部氏の勢力下にあり、そこから自立して秀吉に所領を安堵させ、大名となりました。南部側から見れば、これは家臣の反逆にほかなりません。津軽側から見れば独立戦争です。どちらの言い分にも理があり、だからこそ話がつきませんでした。以後二百七十年、両家は江戸城中でも顔を合わせないよう配慮されるほどの間柄でした。

文化五年、十万石になった日

文化五年(1808年)、弘前藩は蝦夷地警備の負担を理由に十万石へ高直しされます。石高が上がれば、家格も官位も上がります。津軽家の官位が南部家を上回ったのはこのときで、南部の家中はこれを屈辱と受け取りました。

その怒りが形になったのが、文政四年(1821年)の相馬大作事件です。盛岡藩士・下斗米秀之進が、参勤の帰路にあった津軽寧親を待ち伏せして狙撃しようとしました。計画は事前に露見して未遂に終わり、下斗米は捕らえられて処刑されました。武士が私怨で他家の当主を狙うという、幕府の秩序を根底から揺るがす事件です。

蝦夷地警備という重荷

石高が上がったといっても、その中身は北方警備の負担でした。ロシア船の出没を受けて、弘前藩は宗谷や樺太、択捉へ藩士を送っています。冬の蝦夷地で、装備も食糧も足りないまま越冬させられた部隊が壊滅的な被害を出したこともありました。

北の藩は、外交の最前線に立たされていました。ペリーが来る半世紀前から、津軽の武士はロシアを見ていたことになります。

一度は同盟に入り、そして抜けた

戊辰戦争で弘前藩はまず奥羽越列藩同盟に加わり、慶応4年(1868年)7月にこれを離脱して新政府側につきました。同盟を抜けた藩は久保田藩をはじめいくつかあるが、弘前の場合は離脱後すぐ、隣の盛岡藩と直接ぶつかることになります。

野辺地での戦いは、藩境をめぐる小規模な衝突に終わりました。ただし当事者にとっては小さくありません。二百七十年こじれ続けた関係が、最後に実際の銃撃戦になったのです。

そこへ、会津の人々が来た

戦後、会津藩は取り潰され、下北の地に斗南藩として移されました。その土地は旧盛岡藩領の北郡・三戸郡・二戸郡などで、津軽領は含まれていません。

津軽と南部が二百七十年争ってきた土地の隅に、会津から来た人々が入り、飢えました。北の三つの家の不幸が、下北半島の同じ場所で重なっています。

「櫓」と呼ばれた天守

弘前城の天守は、文化七年(1810年)に本丸の櫓を建て替える名目で造られたものです。幕府に対しては「三重櫓」と届け出ました。江戸後期に新しく天守を建てることは、そのままでは許されなかったからです。

この「櫓」が、いま東北で唯一の現存天守として残っています。近年は石垣修理のために天守そのものを移動させる大工事が行われ、本丸の別の位置に建つ天守と岩木山が並ぶ、期間限定の風景が生まれました。名目を工夫して建てられた小さな天守が、二百年後にこれだけ手をかけて守られています。

弘前藩をもっと詳しく

先祖の戦国武将・津軽為信

弘前藩の祖・津軽為信は、天文十九年(1550年)に生まれ、慶長十二年(1607年)に亡くなった戦国武将です。実の父は武田重信といい、のちに大浦為則の養子となって大浦氏を継ぎました。「津軽」を名乗る前の家の名は大浦だったことになります。

為信は元亀二年(1571年)、南部氏の一族・南部高信がいた石川城を攻め落としたのを手始めに、津軽地方を一つにまとめていきました。天正十八年(1590年)三月には浪岡城を囲み、城代の楢山帯刀を三戸へ敗走させています。本文で触れられている「南部から見れば家臣の反逆」という遺恨は、こうした戦いの積み重ねから生まれました。

藩の成り立ち:石高の移り変わり

為信は天正十八年(1590年)七月の小田原攻めに参陣して、大名としての地位を豊臣秀吉に認められました。そのときの石高は、陸奥国津軽領四万五千石とする資料と、翌天正十九年(1591年)に豊臣政権の蔵入地の代官に任じられ三万石の領知を与えられたとする資料(日本大百科全書)があります。

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方として美濃の赤坂の本陣に参じ、戦後に上野国新田郡大舘で二千石を加えられました。慶長八年(1603年)には弘前の城下町づくりを命じるなど、藩の土台を整えています。本州の北の端の藩が、関東の上野にも小さな領地を持っていたのは、この関ヶ原の恩賞の名残です。

その後、本文にあるとおり文化五年(1808年)に十万石へ高直しされますが、これは蝦夷地の警備を引き受けたことに対するもので、実際の領地が増えたわけではなく、藩の負担が増すばかりだったとされます。

本家と分家:黒石の津軽家

明暦二年(1656年)、四代藩主の津軽信政が家を継ぐと同時に、幕府の命令で一族の津軽信英(のぶふさ)に五千石が分けられました。青森県教育委員会の説明では、これは本家の知行高のうちから分ける「内分分知」で、内訳は黒石領二千石、外浜の平内(ひらない)領一千石、上野国勢多郡新田庄二千石でした。

信英は黒石にもとからあった町に新しい町割りを加えて、城下町づくりを進めたとされます。この黒石の津軽家は、文化六年(1809年)に本家からさらに六千石を分けられて一万石の大名となり、黒石藩として独立しました。本家の十万石への高直しの翌年のことです。

同じ時代の大きな出来事:天明の飢饉

弘前藩の歴史でもっとも痛ましいのが天明の飢饉です。天明三年(1783年)に領内の飢饉が深刻になり、同年十月から翌年八月までの餓死者は十万二千人あまりにのぼったとされます。北の藩が背負ったのは、警備の負担だけではありませんでした。

藩主家の子孫・明治以降

最後の藩主・津軽承昭(つぐあきら)は、熊本藩主・細川斉護の四男として江戸で生まれ、初めの名を細川護明といいました。安政四年(1857年)六月二十八日に十一代藩主・津軽順承の婿養子となり、安政六年(1859年)二月七日に家督を継いでいます。明治十七年(1884年)に伯爵となり、大正五年(1916年)七月十九日に亡くなりました。跡は養子の英麿が継いでいます。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、十万石のこの藩はおよそ二千三百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。また十万石は文化五年の高直し後の数字で、それ以前の四万七千石で計算すると、およそ千百人になります。

参考:Wikipedia「弘前藩」「津軽承昭」、コトバンク「津軽為信」(日本大百科全書)、青森県教育委員会「明暦二年津軽十郎左衛門拝領山形黒石領外浜平内領検地帳」

弘前藩が盛岡藩領の野辺地を攻めた野辺地戦争は、こちらで詳しく解説しています。
野辺地戦争とは?津軽の弘前藩が南部の野辺地を夜襲した戊辰戦争の最後の戦いを図解でわかりやすく

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この藩が持っていた艦船

弘前藩(津軽藩)の艦船として当サイトで扱っているのは一隻です。

幕末の艦船を二十八の勢力に分けて並べると、そのうち十四は一隻しか名前が残っていません。蒸気船は買うだけでなく、燃料を手配し、機関を扱える者を育て、修理の場所まで用意しなければ動きません。一隻を持つことさえ重い買い物でした。

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