慶応4年8月23日の夜明け前、猪苗代湖の西にひろがる戸ノ口原は冷たい雨にぬれていました。前の晩からろくに食べるものもなく、土を掘った穴にうずくまっていたのは、16、17歳の少年たちです。会津藩の白虎隊士中二番隊。もうすぐ、ここに新政府軍の大軍が押しよせてきます。
母成峠がやぶられてから、わずか2日。会津の守りは猪苗代、十六橋、戸ノ口原と、ドミノのようにくずれていきました。そして敗れた少年たちは、城下を見わたす飯盛山へとたどりつきます。この記事では、その3日間を進軍図とイラストで解説します。

戸ノ口原の戦いとは?ひとことで言うと
戸ノ口原の戦いは、母成峠を突破して会津若松の城下をめざす新政府軍を、会津藩が十六橋と戸ノ口原で食い止めようとしてやぶれ、白虎隊士中二番隊の少年たちが飯盛山で自刃するにいたった戦いです。
| 日時 | 慶応4年8月22日〜23日(前日21日に母成峠がやぶれ、猪苗代城が自焼) |
|---|---|
| 場所 | 陸奥国耶麻郡・会津郡 十六橋〜戸ノ口原(現在の福島県猪苗代町・会津若松市河東町など) |
| 旧幕府方 | 会津藩(佐川官兵衛の指揮する敢死隊・奇勝隊、白虎隊士中二番隊など)、旧幕府の兵 |
| 新政府軍 | 薩摩藩・土佐藩・長州藩・大垣藩など(伊地知正治・板垣退助ら) |
| 兵力(おおよそ) | 会津側 数百人/新政府軍 約2000〜3000人とされる |
| 戦死者 | はっきりした数はわかっていない。白虎隊士中二番隊は37人が出陣し、戸ノ口原の戦いや退却のなかで命を落とした隊士もいた。飯盛山では20人が自刃をはかり、19人が亡くなった |
| 結果 | 新政府軍の勝利。8月23日、そのまま会津若松の城下へ突入する |

なぜ戸ノ口原で戦いが起きたのか
母成峠がやぶられた
慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は安達太良山と磐梯山のあいだにある母成峠を攻めました。守っていたのは大鳥圭介の伝習隊や会津藩、二本松藩の残兵など数百人です。会津藩は主力を白河口や日光口、越後口に出していたため、ここは手薄でした。峠はわずか1日で落ち、守りの兵はちりぢりになりました(くわしくは「母成峠の戦い」の記事で解説しています)。

猪苗代城を自ら焼く
母成峠から会津若松へ向かう道の途中に、猪苗代城(亀ヶ城)があります。城代の高橋権大夫は、とても守りきれないと判断し、城に火を放って若松へ引きあげました。敵に城を使わせないためです。会津藩祖・保科正之をまつる土津神社も、敵の手に渡るのをさけて会津側が焼いたといわれます。火を放った日は21日夜とも22日とも書かれ、資料によってちがいます。

残された最後の関門、十六橋と戸ノ口原
猪苗代から若松の城下へは、猪苗代湖から流れ出す日橋川をわたり、戸ノ口原の丘をこえ、さらに滝沢峠をこえて進みます。日橋川にかかる十六橋は、天明6年(1786年)に会津藩がかけた石橋でした。ここを落とせば敵の足を止められる。会津藩にとって、十六橋と戸ノ口原は城下を守る最後の関門だったのです。
両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府方(会津藩など)
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 会津藩 | 松平家 23万石 |
佐川官兵衛が指揮をとり、十六橋の破壊と戸ノ口原の守りにあたる。藩主の松平容保も滝沢本陣まで出て兵を励ます |
| 敢死隊 | 会津藩 | 戸ノ口の陣地を守る |
| 奇勝隊 | 会津藩 | 僧侶なども加わっていた隊で、戦いの経験が少なかったとされる。十六橋で崩れたといわれる |
| 白虎隊士中二番隊 | 会津藩 上士の子弟 |
士中二番隊のうち、16〜17歳(数え年)の少年37人が出陣。藩主の護衛から戸ノ口原へ送られ、菰土山の陣地で戦う |
| 旧幕府の兵 | ― | 母成峠から退いてきた兵などが加わる |
新政府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 薩摩藩 | 島津家 77万石 |
伊地知正治が参謀。川村与十郎(純義)の隊が先頭で十六橋を奪う |
| 土佐藩 | 山内家 24万石 |
板垣退助がひきいる。戸ノ口原を突破し、城下突入の先頭に立つ |
| 長州藩 | 毛利家 36万石 |
母成峠からともに進む |
| 大垣藩 | 戸田家 10万石 |
母成峠からともに進む |

両軍の条件を比べる
| 会津藩など | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 数百人。主力は国境に出ていて、寄せ集めの隊が多い | 約2000〜3000人。母成峠の勝利で勢いがある |
| 武器 | 旧式の銃が多い。白虎隊はヤーゲル銃などの古い銃を持っていたとされる | 新式の小銃と大砲 |
| 指揮官 | 佐川官兵衛。白虎隊は隊長の日向内記が夜に行方がわからなくなる | 伊地知正治、板垣退助 |
| 地の利 | 川と丘を盾にできるはずだった | 十六橋を早く押さえたことで、地の利をくずした |
| そのほか | 急な出陣で食料が十分でなく、雨の中で夜を明かす | 夜のうちに橋を直し、夜明けとともに攻める |
戦いの流れ

8月22日昼すぎ:十六橋を落とせ
22日の朝(前の晩とも)、母成峠の敗報が若松の城にとどきました。佐川官兵衛は、奇勝隊・敢死隊などをひきいて十六橋へ向かいます。ねらいは橋を壊して敵の足を止めることでした。しかし十六橋はがんじょうな石橋で、すぐには壊せません。兵たちが橋の板石をはずしはじめたところへ、薩摩藩の川村与十郎の隊が追いつき、撃ち合いになりました。
新政府軍の後続がつぎつぎと到着すると、会津側は持ちこたえられず、奇勝隊などがまず崩れたといわれます。十六橋は敵の手に落ち、新政府軍はその夜のうちに橋を直して、戸ノ口原へ向かってきました。

8月22日午後:白虎隊、滝沢本陣から戸ノ口原へ
同じ日、藩主の松平容保は兵を励ますため、城の北東の滝沢村にある本陣まで出てきました。そのまわりを守っていたのが白虎隊です。白虎隊は、藩校日新館で学ぶ16〜17歳(いずれも数え年。いまの満年齢だと15〜16歳ほど)の武士の子どもたちでつくられた隊で、本来は予備の兵でした。白虎隊ぜんたいでは300人あまりがいて、飯盛山の少年たちはそのごく一部です。ほかの隊の白虎隊士も各地で戦い、多くは戦争を生きのびました。
会津藩は鳥羽伏見の戦いのあと、慶応4年3月に軍の仕組みをあらため、年齢ごとに隊を分けました。50歳以上の玄武隊、36〜49歳の青龍隊、18〜35歳の朱雀隊、そして16〜17歳の白虎隊です。白虎隊はさらに身分によって士中・寄合・足軽に分かれ、それぞれ一番隊・二番隊がありました。士中二番隊は、上級の武士の家の少年たちの隊です。年齢の区切りには資料によって少しちがいがあり、実際には15歳で加わった少年もいたといわれます。
主力の朱雀隊や青龍隊は国境の守りに出はらっていて、城のまわりに残っていたのは、年配の兵や少年たちが中心でした。白虎隊が前線に送られたのは、それだけ会津藩に兵が残っていなかったということでもあります。
そうしたなか十六橋での苦戦が伝えられると、士中二番隊に戸ノ口原への出陣が命じられます。隊長の日向内記のもと、37人の少年たちは滝沢峠をこえて戸ノ口原へ急ぎました。急な出陣だったため、十分な食料を持っていなかったといわれます。少年たち自身も出陣を強く願い出ていたと伝わり、ただ大人に送りこまれたというだけではありませんでした。

8月22日夜:雨の菰土山
戸ノ口原に着いた士中二番隊は、強清水の集落の近く、菰土山とよばれる小高い場所に穴を掘り、土を盛って陣地をつくりました。夕方には近くで小ぜりあいがあり、敢死隊が応戦しています。
夜になると雨が降りだしました。夕方ににぎり飯が配られたという記録もありますが、食料は十分ではなく、少年たちは空腹と寒さにたえながら朝を待ちます。そのうえ、隊長の日向内記が軍議(作戦の話し合い)のために陣を離れたまま、戻ってきませんでした(その事情には諸説あります)。以後は小隊長の篠田儀三郎が隊をまとめることになります。

8月23日夜明け:戸ノ口原の激戦
23日の夜明け、新政府軍は雨と霧のなかを戸ノ口原へ攻めかかりました。白虎隊も古い銃で撃ち返し、ひるまずに戦ったと伝わります。しかし相手は数も武器もまさる大軍でした。まわりの会津の部隊が退いていくなか、少年たちも持ちこたえられなくなります。
敵に回りこまれる前にと、隊は退却を始めました。この戦いや退却のとちゅうで、白虎隊士の何人かが命を落としたり、はぐれたりして、隊はばらばらになっていきます。37人で出陣した少年のうち、飯盛山までたどりついたのは20人でした。戸ノ口原を突破した新政府軍は、そのまま滝沢峠をこえ、城下へとなだれこんでいきます。

8月23日朝:戸ノ口堰洞穴をくぐって
少年たちは道を外れ、敵をさけながら山の中を若松の方向へ進みました。けがをした仲間に肩を貸しながらの退却です。とちゅうで、猪苗代湖の水を会津の平野に引くための用水路・戸ノ口堰にたどりつきます。この用水路は飯盛山の中腹でトンネル(洞穴)になっていました。長さはおよそ150メートル。少年たちは腰まで水につかりながら暗い洞穴をくぐりぬけ、飯盛山に出たと伝えられています。

8月23日:飯盛山にて
飯盛山の中腹からは、城下と鶴ヶ城がよく見えます。少年たちの目に映ったのは、炎と煙につつまれた城下でした。このあとどうするか、少年たちは話し合いました。城へもどって戦おうという声も、敵の中へ斬りこもうという声もあったといわれます。しかし敵がすでに城下に満ちているなかで、捕らえられて恥をさらすよりはと、20人が自ら命を絶つ道を選びました。
よく知られているのは「城が燃えているのを見て、落城したと思いこんだ」という話で、いまも多くの事典や案内でこう説明されています。いっぽう、ただひとり生きのびた飯沼貞吉が残した記録では、城がまだ落ちていないことは分かったうえで、敵に捕まらないために自刃を選んだとされています。このため、落城を思いちがえただけの悲劇ではなかった、とする見方も広まっています。
のどを突いた飯沼貞吉は、息子をさがして山に来ていた女性(印出ハツと伝わる)らに助けられ、命をとりとめました。自刃した20人のうち19人が亡くなりました。

戦いのあと
城下突入、そして籠城へ
戸ノ口原をやぶった新政府軍は、8月23日のうちに若松の城下へ突入しました。会津藩は鶴ヶ城にこもり、ここから約1か月にわたる籠城戦が始まります(くわしくは「会津若松城の籠城戦」の記事で解説しています)。
飯盛山の墓と飯沼貞吉
自刃した少年たちの遺体は、新政府軍が葬ることを許さなかったため、しばらくそのままにされたといいます。約3か月後、村人がひそかに妙国寺に仮に葬り、のちに自刃した場所の近くに移されました。いまの墓所は明治23年に整えられ、19人の墓が並んでいます。そのとなりには、ほかの場所で戦死した白虎隊士31人の墓もあります。
飯沼貞吉はのちに貞雄と名をあらため、電信技師として明治・大正を生き、昭和6年に亡くなりました。長いあいだ、あの日のことをほとんど語らなかったといわれます。遺骨の一部は本人の願いで飯盛山に葬られ、仲間の墓から少しはなれた場所に墓が立っています。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
白虎隊の話は「忠義の少年たち」として語られることが多いのですが、戦いの流れを追っていくと、まず目につくのは、いくつもの国境に兵を出しきって、城のまわりを守る力が残っていなかった会津藩の苦しさと、指揮の混乱です。母成峠は手薄で、十六橋は落とせず、少年たちは食料も持たずに前線へ送られ、雨の夜には隊長までいなくなってしまいました。彼らは「予備の兵」だったはずなのに、そこまで追いつめられていたのだと感じます。
そして、「城が燃えていると思いこんだ」という有名な話が、生き残った飯沼貞吉の記録とは少しちがうことにも考えさせられます。勘ちがいの悲劇というだけでなく、16、17歳の少年たちが自分たちで話し合い、選んだ結果だったとすれば、その重さはまたちがって見えてきます。
飯盛山の墓の前に立つと、いまも線香の煙が絶えません。教科書の一行で終わらせず、この3日間に何があったのかを順にたどることが、少年たちを忘れないことにつながるのではないかと思います。
現地を歩く ― 戸ノ口原の戦いの史跡
- 十六橋(十六橋水門)(福島県耶麻郡猪苗代町翁沢):会津藩がかけた石橋のあとに、明治12年、安積疏水の水門として16のアーチをもつ橋が造られました
- 戸ノ口原古戦場(会津若松市河東町 強清水付近):白虎隊が陣を置いた菰土山のあたりに碑が立っています
- 亀ヶ城跡(猪苗代城跡)(耶麻郡猪苗代町古城跡):自焼した猪苗代城の跡。石垣が残ります
- 土津神社(耶麻郡猪苗代町見祢山):戊辰戦争で焼け、のちに再建された保科正之をまつる神社
- 戸ノ口堰洞穴(会津若松市一箕町 飯盛山):白虎隊がくぐったと伝わる用水路のトンネル。いまも水が流れています
- 白虎隊十九士の墓・白虎隊自刃の地(会津若松市一箕町八幡 飯盛山):19人の墓と、城下を見わたす自刃の地
- 滝沢本陣跡(会津若松市一箕町):藩主容保が本陣を置き、白虎隊が出陣した旧家。弾や刀の跡が残るといわれます



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- 赤谷・津川の戦い
- 会津藩/薩摩藩/土佐藩/長州藩/大垣藩
参考にした資料
- 飯沼貞吉『白虎隊顛末略記』
- 会津物語「白虎隊自刃の真相(1)慶応4年8月22・23日の行動」
- 国立国会図書館「錦絵と写真でめぐる日本の名所」コラム「会津戦争」
- 福島県「十六橋・十六橋水門」解説
- 鶴ヶ城天守閣郷土博物館 展示パンフレット
- 旅行情報サイト「ニッポン旅マガジン」飯盛山・白虎隊十九士の墓・滝沢本陣の解説
- 星亮一『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』(中公新書)
文・写真:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです


