赤谷・津川の戦いとは?会津の西の入口・越後口で350人の会津軍が新政府軍を迎え撃った戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく

雷雨の角石原で槍を構えて斬りこむ会津兵のイメージイラスト

会津の戦いといえば、母成峠を破られて鶴ヶ城の籠城へ、という流れがよく知られています。しかし会津の国境では、母成峠のほかでも戦いがありました。その一つが、越後から会津へ入る西の入口、越後口(津川口)での「赤谷・津川の戦い」です。

慶応4年(1868)8月、新発田から会津街道を東へ進んだ新政府軍およそ1,600人を、会津軍およそ350人が国境の赤谷(いまの新潟県新発田市上赤谷)で迎え撃ちました。雷雨の夜明け前、会津の槍隊が斬りこみ、16歳の白虎隊士も命を落とします。この記事では、赤谷・津川の戦いがなぜ起き、どの藩がどれだけの兵で戦い、なぜ会津軍は津川まで退いたのかを、進軍図とイラストで解説します。

目次

赤谷・津川の戦いとは?ひとことで言うと

北越戦争で越後を押さえた新政府軍が、会津へ攻めこむために会津街道を進み、国境の赤谷で会津軍を破り、阿賀野川をはさんだ津川での対陣のすえに越後口を開いた戦いです。

日時 慶応4年8月13日〜15日(赤谷の戦い)、8月16日〜25日ごろ(津川の対陣)。1868年9月28日〜10月10日ごろ
場所 越後国の赤谷・角石原・榎平(現在の新潟県新発田市)と、津川(現在の新潟県東蒲原郡阿賀町)。会津街道(越後街道)ぞい
新政府軍 新発田藩・加賀藩・長州藩・芸州藩・薩摩藩。参謀は長州の山県有朋
会津軍 三宅小左衛門の遊撃隊、樋口仲三郎の隊、赤埴平八の力士隊、白虎隊寄合一番隊、地元の猟師など
兵力(おおよそ) 新政府軍 約1,600人・大砲10門 対 会津軍 約350人(白虎隊寄合一番隊・猟師が別なら最大500人あまり)
結果 新政府軍の勝利。両軍の戦死は約70人(うち会津約20人)。会津軍は津川へ退き、8月25日に越後口から引き上げた

なぜ越後口で戦いが起きたのか

越後を失った奥羽越列藩同盟

慶応4年の夏、越後では長岡藩の河井継之助を中心に、奥羽越列藩同盟の軍が新政府軍と激しく戦っていました(長岡戦争とは)。しかし7月下旬、新政府軍が海から新潟の近くに上陸すると、それまで同盟に加わっていた新発田藩が新政府の側につきます。7月29日には新潟と長岡城が落ち、越後の同盟軍は総崩れになりました。

会津街道の国境・赤谷

越後を押さえた新政府軍の次のねらいは会津です。新発田から会津若松へは、会津街道(越後街道)が山あいを東へ延びています。その途中、境川をはさんで、西が新発田藩領、東が会津藩領でした。会津領の入口にあたるのが赤谷です。

会津藩は7月28日、この赤谷を守るよう命じ、境川の東に大砲を据えて胸壁を築きました。会津藩はもともと、越後の津川や赤谷のあたりを領地として持っていたのです。

両軍の顔ぶれと兵力

新政府軍(会津口の征討軍)

藩 大名家・石高 藩主 この戦いでの動き
新発田藩 溝口家
10万石
溝口直正 地元の藩として先鋒をつとめた。溝口内匠が率い、先鋒の小隊長・窪田源五左衛門らが戦死した
加賀藩 前田家
102万石
前田慶寧 会津口の征討軍に加わった
長州藩 毛利家
36万9千石
毛利敬親 参謀の山県有朋が全体を指揮。奥平謙輔らの干城隊が加わった
芸州藩(広島藩) 浅野家
42万6千石
浅野長訓 会津口の征討軍に加わった
薩摩藩 島津家
77万石
島津忠義 会津口の征討軍に加わった

会津軍(越後口の守備隊)

部隊 率いた人物 この戦いでの動き
遊撃隊(本道) 三宅小左衛門 赤谷の守備隊のうち約200人。会津街道の本道を進み、角石原で斬りこんだ。三宅は槍をふるって突撃し戦死
樋口隊(間道) 樋口(高津)仲三郎 赤谷の守備隊のうち約150人。榎平の方面へ回り、雨の中で夜戦をした
力士隊 赤埴平八 相撲取りで組んだ隊。本道の三宅隊に加わって戦い、赤埴は激しい銃撃の中へ突っこんで戦死
白虎隊寄合一番隊 ― 約100人。16歳の佐々木新六郎が戦死した
猟師隊・朱雀隊など 町野源之助ほか 地元の猟師約60人も加わった。敗れたあとは町野源之助が残兵をまとめた

記録では、赤谷を守った会津軍はおよそ350人で、これを本道の三宅隊(約200人)と間道の樋口隊(約150人)の二手に分けています。力士隊は三宅隊に加わりました。白虎隊寄合一番隊(約100人)と地元の猟師(約60人)も戦いに加わっていますが、この350人の中に数えられているのか、別に加わったのかは、記録からははっきりしません。すべてを別に数えると、多くて500人あまりになります。会津藩(松平家23万石)は、このころ白河口・日光口・越後口と四方の国境に兵を分けており、一つの口に出せる兵は限られていました。

兵力と武器を比べる

新政府軍 会津軍
兵力 約1,600人 約350人(白虎隊寄合一番隊・猟師が別に加わっていれば、最大で500人あまり)
大砲 10門。八方山に4門を据えて撃ち下ろした 赤谷の陣地に大砲を据えていた
得意な戦い方 小銃と大砲で、高い所から撃ちすくめる 槍隊・力士隊による斬りこみ。地元の猟師の鉄砲
指揮 参謀・山県有朋。本道と間道の二手に分けた 本道の三宅隊と間道の樋口隊の二手。敗れたあとは町野源之助

戦いの流れ

赤谷・津川の戦いの進軍図
赤谷・津川の戦いの進軍図。新発田から会津街道を進んだ新政府軍が角石原・赤谷で会津軍を破り、津川で阿賀野川をはさんで対陣した(イメージ)

8月13日:会津軍、二手に分かれて打って出る

新政府軍が本道と間道の二手から攻めてくると見た会津軍は、13日、自分たちも二手に分かれて先に打って出ました。三宅小左衛門の約200人が本道を、樋口仲三郎の約150人が間道を榎平の方へ進みます。

8月14日未明:角石原の斬りこみ

雷雨の角石原で槍を構えて斬りこむ会津兵
8月14日未明、雷雨の角石原。槍を構えて斬りこむ会津兵と、迎え撃つ新政府軍。山の上には新政府軍の大砲(イメージ)

14日の夜明け前、雷雨の中で、会津軍は境川の手前の角石原で新政府軍の先鋒に襲いかかりました。戦いはすぐに入り乱れての斬り合いになります。会津の槍隊は強く、新発田藩の先鋒は小隊長の窪田源五左衛門をはじめ10人あまりを失いました。新政府軍はいったん山内まで退いて立て直します。

榎平では、樋口の隊が雨の中で激しい夜戦をくり広げていました。ところがそのあいだに、新政府軍は八方山を取ります。会津の陣地を見下ろす高い山でした。

夜明け:八方山から撃ち下ろされる

夜が明けると、新政府軍は小銃をそろえて反撃に出ます。八方山の上からは大砲と小銃が、細い街道にいる会津兵を撃ち下ろしました。三宅小左衛門は槍をふるって突撃し、討ち死にします。力士隊を率いた赤埴平八も、激しい銃撃の中へ突っこんで戦死しました。白虎隊寄合一番隊の佐々木新六郎(16歳)も、この戦いで命を落としています。父の佐々木佐左衛門(59歳)も、赤谷で戦死しました。

会津の本隊は崩れました。町野源之助が指揮を引き継いで残兵をまとめ、津川に援軍を求めましたが、横山伝蔵の隊は間に合いません。町野は全軍に引き上げを命じ、会津軍は赤谷の村に火を放って綱木へ退きました。新政府軍は追って、綱木と新谷を取ります。

8月15日〜25日:阿賀野川をはさんだ津川の対陣

15日の夜、会津軍は津川まで下がり、麒麟山などの高みに胸壁を築きました。津川は阿賀野川の川港で、会津藩の越後口の拠点です。会津軍は舟をすべて川の向こう岸へ移させたため、16日に対岸の角島まで来た新政府軍は川を渡れなくなりました。

ここからおよそ10日間、両軍は阿賀野川をはさんで大砲を撃ち合います。山県有朋は新発田から舟大工を呼び寄せて舟を造らせました。阿賀野川ぞいに水原から進んだ新政府軍の別動隊も、会津軍の守りに阻まれています。

動きを変えたのは、別の口での出来事でした。8月21日に母成峠が破られ、23日には新政府軍が会津若松の城下へなだれこみます(母成峠の戦いとは)。津川の会津軍を率いていた上野学太輔は、25日に津川を捨てて会津へ引き上げ、新政府軍は阿賀野川を渡りました。

八方山は守られていなかったのか

勝負を分けた八方山には、じつは会津兵もいました。新政府軍の迂回隊は、榎平で雨の中の夜戦をしたあと八方山に攻めのぼり、そこにいた会津兵を追い払って山頂を取っています。そのうえで大砲4門を山頂に据え、夜明けとともに細い街道の会津兵を撃ち下ろしました。

では、なぜ会津軍はこの山をもっと固く守らなかったのでしょうか。はっきりした理由は記録に残っていませんが、考えられるのは兵の少なさです。350人ほどの兵で、境川の本陣、本道、間道(榎平)、そして八方山まで固めるのは無理がありました。しかも会津軍は守るだけでなく、13日に本道と間道の二手に分かれて先に打って出ています。斬りこみに兵を回した分、背後の高みの守りが薄くなったともいえます。

会津兵のほかに同盟軍はいなかったのか

赤谷で戦ったのは、記録で見るかぎり会津藩の兵だけです。越後で戦っていた同盟軍は、7月29日に長岡城と新潟が落ちたあと、それぞれ自分の国へ引き上げていました。

  • 長岡藩:河井継之助らは八十里越を越えて会津領の只見へ逃れました。傷ついた兵と家族を抱え、すぐに戦える状態ではありません。8月19日に会津坂下で7小隊に組み直し、そのうち2小隊を津川の方面へ送りましたが、赤谷の戦いには間に合っていません
  • 米沢藩:越後の総督・色部長門が新潟で討ち死にし、兵は米沢へ引き上げました。新政府軍が米沢の国境に迫っていたため、会津へ兵を回す余裕はなく、9月4日には新政府に降伏します
  • 庄内藩:越後から北へ、自分の国へ引き上げました。秋田方面でも戦っていました

会津藩自身も、白河口・日光口・母成峠と四方の国境に兵を分けていました。赤谷に援軍として送れたのは、白虎隊寄合一番隊(約100人)と地元の猟師(約60人)くらいでした。越後口は、ほとんど会津藩だけで守るしかなかったのです。

戦いのあと

死傷者の数

新政府軍 会津軍
戦死 新発田藩の先鋒小隊長・窪田源五左衛門ほか10人あまり。全体の数ははっきりしない 約20人。三宅小左衛門・赤埴平八・佐々木新六郎(16歳)・佐々木佐左衛門ほか
合計 両軍あわせて約70人

津川に民政局

8月26日、新政府軍は津川に民政局を置き、三か条の触れを出して住民の心をつかもうとしました。越後口を開いた新政府軍は、会津街道を東へ進み、会津若松城の包囲に加わっていきます。会津藩が降伏するのは、それからおよそ1か月後の9月22日のことです。

この戦いが示したもの(筆者の感想)

会津の国境の戦いは、母成峠だけではありませんでした。越後口の赤谷では、350人の会津軍が4倍以上の新政府軍に斬りこみ、新発田藩の先鋒を崩しています。津川では舟を引き上げて10日も川を渡らせませんでした。それでも、高い山を取られて大砲で撃ち下ろされると、槍の斬りこみは通じなくなります。槍と力士隊で戦う会津軍と、山の上に大砲を据える新政府軍。戦い方の違いが、そのまま勝ち負けになって表れた戦いでした。

そして、津川を守り抜けなかった理由は、津川そのものではなく、遠く離れた母成峠にありました。四方の国境に兵を分けた会津藩は、一つの口が破られると、ほかの口で持ちこたえていた兵まで引き上げざるをえなくなります。16歳の白虎隊士とその父が、同じ赤谷で命を落としたことも、会津がどれほど多くの家族を戦場に送り出していたかを物語っています。

現地を歩く ― 赤谷・津川の戦いの史跡

  • 角石原古戦場跡碑(新潟県新発田市中々山):8月14日の斬りこみの舞台。戊辰の役から70年を記念して建てられた碑があります
  • 会藩戦死碑(新発田市上赤谷):赤谷で戦死した会津藩士の碑。明治17年(1884)に建てられたと案内板にあります
  • 大慶寺・戊辰役殉難者の碑(新発田市滝谷):赤谷・角石原で戦死した会津藩士5人をまつる碑
  • 大善寺(新発田市):戦死した新発田藩の小隊長・窪田源五左衛門の墓があります
  • 麒麟山(新潟県東蒲原郡阿賀町津川):津川の会津軍が胸壁を築いた山。阿賀野川を見下ろします

あわせて読みたい

参考にした資料

  • ウェブページ「会津街道・赤谷の戦い」
  • 新発田市内の史跡の案内板(会藩戦死碑・角石原古戦場跡)
  • Wikipedia「会津戦争」「北越戦争」

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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