芳賀宜道とは?永倉新八の親友で靖兵隊の隊長—旗本から松前藩、深川の道場、明治2年の最期まで

深川の道場で芳賀宜道を訪ねる永倉新八のイメージイラスト

新選組を離れた永倉新八が、新しい部隊「靖兵隊(せいへいたい)」の隊長にかついだ男がいます。芳賀宜道(はが ぎどう)。永倉と同じ神道無念流の剣客で、若いころには二人で武者修行の旅に出た古い親友でした。旗本の家に生まれながら家を追われ、松前藩に仕え、深川に道場を開き、戊辰戦争を戦い抜いたのに、戦いが終わった翌年、深川の路上で斬られて亡くなります。

この記事では、この剣客の生涯を、旗本の家から松前藩、靖兵隊、そして明治2年の最期までたどります。靖兵隊そのものの戦いは「靖兵隊とは」にまとめています。

目次

芳賀宜道とは?ひとことで言うと

永倉新八の親友で、近藤勇と別れた永倉・原田左之助とともに靖兵隊をつくり、その隊長になった剣客です。もとは旗本で、松前藩の儒者の家に養子に入って「市川宇八郎」と名のっていた時期があります。

深川の道場で芳賀宜道を訪ねる永倉新八
慶応4年3月、深川冬木の弁天社の道場に芳賀宜道を訪ね、新しい部隊づくりを持ちかける永倉新八(イメージ)
名前 芳賀宜道(はが ぎどう)。市川宇八郎とも名のった
生まれ 生年は不明。旗本・芳賀家(父は支配勘定の芳賀市三郎)
剣術 神道無念流。永倉新八と同門
仕えた家 幕府(旗本・小普請組)→ 松前藩(儒者・市川家の養子として)
戊辰戦争 靖兵隊の隊長。宇都宮・壬生・今市など下野で戦い、のち米沢に潜伏
最期 明治2年(1869)1月15日、江戸・深川冬木町で斬られて死去

この人の生涯の多くは、親友だった永倉新八の記録から知られています。

旗本の家に生まれて

小普請組の旗本

芳賀宜道は、幕府の支配勘定を務めた芳賀市三郎の子として生まれました。天保11年(1840)12月27日に家督を継ぎ、小普請組に入ります。小普請組は、役につかない旗本・御家人が入る組で、決まった仕事のない身分でした。弘化元年(1844)には、屋敷が青山権田原の北から四谷内藤宿へ移されています。

家を譲り、松前藩の儒者の養子に

ところが安政元年(1854)3月27日、素行に問題があるとして、芳賀は家督を養子の録之助に譲らされ、長屋住まいの身になります。そのあと松前藩の儒者・市川家の養子となり、「市川宇八郎」と名のりました。旗本の家を出て、蝦夷地の大名・松前家に仕えることになったのです。

松前藩は、永倉新八のもとの主家でもあります。永倉の父は松前藩の江戸詰めの藩士でした。芳賀と永倉が親しくなった背景には、同じ神道無念流の剣の縁と、同じ松前藩の縁が重なっていたことになります。

永倉新八との武者修行

若いころ、芳賀は永倉とともに、江戸を出て隣の国々へ武者修行の旅に出ました。下野の佐野では、佐野藩堀田家の家臣・大沢大助の門人4人を打ち負かし、大沢本人とも立ち合って、柔術の技でほんろうしたといいます。二人は腕を競い合いながら江戸へ戻りました。

のちに永倉は京都へ上り、新選組の二番隊組長として名を上げます。一方の芳賀は江戸に残り、松前藩士として暮らしました。二人の道は、ここでいったん分かれます。

松前藩を去る

攘夷論で藩と対立

芳賀は激しい攘夷論を唱え、藩の中で意見が対立するようになりました。慶応3年(1867)1月6日、病気を理由に松前藩を退きます。

富士重本との因縁

同じ年の2月22日、芳賀は百合元昇三の息子・銓之助に命じて、下谷御徒町の親類の家にいた富士重本(亦八郎)を襲わせました。銓之助は金品を奪い、富士に傷を負わせています。富士は芳賀の妻の兄でした。芳賀の側には仲間が多かったため、このときは仕返しは行われませんでした。ところがこの因縁が、2年後の芳賀の最期につながっていきます。

藩を離れた芳賀は、深川冬木町の弁天社の境内で剣術道場を開いて暮らしていました。

靖兵隊の隊長に

永倉が深川の道場を訪ねる

慶応4年(1868)3月、甲州勝沼で敗れて江戸へ戻った新選組の中で、永倉新八と原田左之助は近藤勇と意見が合わず、隊を離れました。その永倉が訪ねたのが、深川の芳賀の道場です。旧幕府のために新しい部隊をつくろうという永倉の誘いを、芳賀は引き受けました。

こうして生まれたのが靖兵隊です。隊長に芳賀、副長に永倉と原田が立ち、新選組を離れた隊士や旗本、幕府の歩兵など100人あまりが集まりました(靖兵隊とは)。新選組で名の知られた永倉や原田ではなく、芳賀が隊長になったのは、旗本の出で年長でもあった芳賀を、二人が立てたからだと考えられます。

下野の戦場へ

4月10日、江戸城の明け渡しの前日に、靖兵隊は江戸を脱出しました。鹿沼で大鳥圭介の旧幕府軍と合流し、宇都宮・壬生・今市と下野の各地で戦います。下野の藤原では、300人ほどを率いる立場になっていたといいます。

閏4月21日、芳賀は永倉とともに、日光にいた輪王寺宮から日光を取り返すよう命じられ、会津藩へ援軍を求めに向かいました。隊の指揮は林信太郎と前野五郎に託されます。

米沢に潜伏、町人姿で江戸へ

戦況が悪くなると、芳賀と永倉は米沢藩士・雲井龍雄の手引きで米沢に身をひそめました。9月に会津藩が降伏したことを知ると、二人は町人の姿に変え、12月27日に東京へ戻ります。

明治2年1月15日、深川での最期

東京へ戻ってまだ半月あまりの明治2年(1869)1月15日。芳賀は深川冬木町の才右衛門という者の家を訪ねたところで、富士重本と出会いました。富士はこのころ、駿河の赤心隊の隊長になっていました。そばには隊士の坂口伊三郎と長坂主税もいました。

はじめは世間話でしたが、やがて戊辰戦争の話になります。浪士たちは官軍に討たれていて、とても助からないだろう—富士がそう言ったとき、芳賀は富士に飛びかかり、刀を奪おうとしました。もみ合いになったところへ、隣の部屋から坂口と長坂が飛び出して斬りつけます。芳賀は傷を負ったまま外へ逃れましたが、河岸のほとりで討ち取られました。このとき芳賀は酒を飲んでいたといいます。

浅草三間町にいた芳賀の妻は、仇討ちを願いました。しかし永倉の記すところでは、下手人は箱館へ向かう途中で亡くなったため、仇討ちは果たされなかったといいます。ただ、富士重本は明治30年(1897)ごろまで生きていたともされ、永倉の記録と食い違っています。

芳賀宜道が示したもの(筆者の感想)

芳賀宜道は、新選組の隊士ではありません。それでも、近藤と別れた永倉が最初に頼ったのはこの人でした。新選組の名が通じなくなった江戸で、永倉には、京都の仲間ではなく、若いころに一緒に旅をした剣の友が残っていたのです。

一方で、芳賀の生涯は決して穏やかなものではありませんでした。素行を問われて旗本の家を譲り、攘夷論で藩と対立し、妻の兄を襲わせ、そして戦いが終わったあとに、その因縁の相手の配下に斬られています。戊辰戦争を生き延びた人が、戦場ではなく、ふだんの町の中で命を落とす。明治のはじめの東京には、まだそうした危うさが残っていたことがわかります。

永倉はこのあと松前藩へ帰参し、北海道で長く生きて、新選組の思い出を語り残しました。その回想の中に芳賀の名がくり返し出てくるのは、永倉にとって芳賀が、最後まで忘れられない友だったからではないでしょうか。

現地を歩く ― 芳賀宜道ゆかりの地

  • 冬木弁天堂(東京都江東区冬木):芳賀が道場を開いた深川冬木町の弁天社にあたる場所。いまも弁天堂がまつられています。芳賀が斬られたのも、この冬木町でした
  • 大久保稲荷神社(東京都江東区森下):勝沼から戻った新選組の隊士が集まった大久保主膳正の屋敷の跡。冬木からも遠くありません

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参考にした資料

  • 永倉新八『新撰組顛末記』(新人物往来社)
  • Wikipedia「芳賀宜道」「靖兵隊」「永倉新八」

文:佐藤秀信
※イラストはイメージです

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