慶応4年(1868)3月、甲州勝沼で敗れて江戸へ戻った新選組の中で、長年の同志が袂を分かちました。二番隊組長の永倉新八と、十番隊組長の原田左之助です。二人は近藤勇のもとを離れたあと、どうなったのか。戦いをやめたわけではありません。新しい部隊「靖兵隊(せいへいたい)」をつくり、北関東で新政府軍と戦い続けたのです。
この記事では、近藤との決裂の場面から、靖兵隊の結成、原田左之助の離脱、宇都宮・今市の戦い、永倉が米沢から江戸へ戻るまでを、行軍図と表で解説します。直前の甲州勝沼の戦いは「甲州勝沼の戦いとは」にまとめています。
靖兵隊とは?ひとことで言うと
近藤勇と別れた永倉新八・原田左之助が、神道無念流の同門・芳賀宜道を隊長に立てて江戸でつくった、旧幕府側の小さな部隊です。「靖共隊(せいきょうたい)」とも書かれます。江戸城の明け渡しの前日に江戸を出て、大鳥圭介の旧幕府軍とともに宇都宮・壬生・今市で戦いました。
| 結成 | 慶応4年3月、江戸(深川)で |
|---|---|
| 隊長 | 芳賀宜道(もと旗本。永倉と同じ神道無念流で、松前藩にも仕えた) |
| 副長 | 永倉新八・原田左之助 |
| 兵力 | 約100人。新選組を離れた者、諸藩の脱走者や旗本が約50人、幕府歩兵が約50人。さらに米田圭次郎の歩兵隊約300人と行動をともにした |
| おもな戦い | 宇都宮・壬生(安塚)の戦い、今市の戦い、高徳の戦い(いずれも下野) |
| 結末 | 永倉と芳賀は会津・米沢へ向かい、会津の降伏を知って江戸へ戻った。残った隊士は新遊撃隊に入り、10月に銚子で降伏した |
このあとの話の多くは、永倉自身が晩年に語った回想『新撰組顛末記』にもとづいています。近藤の側から見た記録ではないことは、頭に置いておく必要があります。
近藤勇との決裂

勝沼から江戸へ

3月6日、甲陽鎮撫隊と名を改めた新選組は、甲州勝沼の柏尾で板垣退助の率いる新政府軍に敗れました(甲州勝沼の戦いとは)。散り散りになった隊士は江戸へ戻り、本所の旗本・大久保主膳正の屋敷を集まる場所にしました。もと京都町奉行で、京都時代から近藤と顔見知りだった人物です。3月10日から12日ごろのことと考えられています。
「家臣になるなら」
永倉と原田ら数人は、近藤に、会津へ行って新政府軍と戦おうと持ちかけました。ところが近藤の答えは、そのような勝手な話には加われない、自分の家臣になるというなら同意しよう、というものでした。
永倉たちにとって、近藤は試衛館以来の同志であって、主君ではありません。永倉は「武士は二君に仕えず」と怒り、一同は近藤に見切りをつけて離れました。隊士の前野五郎の記録では、永倉らとともに新選組を離れたのは3月11日のこととされます。永倉と原田は文久3年(1863)の浪士組から5年間、近藤とともに歩んできましたが、その道はここで分かれます。
近藤と土方歳三はこのあと、残った隊士をまとめて下総の流山へ向かいます。近藤が流山で新政府軍に出頭し、板橋で首を斬られるのは、それから1か月ほどあとのことです。
芳賀宜道と靖兵隊の結成
隊長・芳賀宜道とは
永倉が新しい部隊の隊長にかついだのは、芳賀宜道です。旗本・芳賀家の生まれで、家を養子に譲ったあと、松前藩の儒者・市川家の養子となり「市川宇八郎」と名のりました。永倉と同じ神道無念流の同門で、若いころには二人で武者修行の旅に出たこともある、永倉の古い親友です。くわしくは「芳賀宜道とは」にまとめています。
松前藩は永倉のもとの主家でもあります。永倉の父は松前藩の江戸詰めの藩士でした。芳賀は慶応3年に松前藩を離れ、深川冬木町の弁天社の境内で剣術道場を開いていました。慶応4年、そこへ新選組を離れた永倉が訪ねてきて、旧幕府のために部隊をつくろうと持ちかけ、芳賀は引き受けます。
靖兵隊の顔ぶれ

| 役目 | 人物 | どんな人か |
|---|---|---|
| 隊長 | 芳賀宜道 | もと旗本。神道無念流の剣客で、永倉の親友 |
| 副長 | 永倉新八 | もと新選組二番隊組長。神道無念流の免許皆伝 |
| 副長 | 原田左之助 | もと新選組十番隊組長。伊予松山の出身で、槍の名手 |
| 士官取締 | 矢田賢之助 | もと新選組隊士。のちに今市で戦死 |
| 歩兵取締 | 林信太郎・前野五郎 中条常八郎・松本喜次郎 |
いずれも新選組から加わった隊士。林と前野は、のちに永倉・芳賀に代わって隊を率いた |
兵は100人あまり。新選組を離れた者のほか、諸藩を脱走した者や旗本がおよそ50人、幕府の歩兵がおよそ50人でした。「靖兵隊」の「靖」には、国を安んじるという意味があります。
米田圭次郎の歩兵隊と合流
靖兵隊は、江戸城の和田倉門内にあった会津藩邸の跡に陣を置いていた、米田圭次郎の歩兵隊およそ300人と一緒になり、ここでフランス式の調練を受けました。剣で名を上げた新選組の幹部が、洋式の歩兵と肩を並べて訓練を受けたことになります。

江戸脱出と、原田左之助の離脱
4月10日、江戸を出る
江戸城を新政府軍に明け渡すことが決まると、靖兵隊は米田隊とともに、4月10日に江戸を脱出しました。明け渡しの前日です。翌11日には、大鳥圭介も幕府の伝習隊などを率いて江戸を脱出し、下総の国府台に集まっています。
山崎宿で原田が去る
ところが、江戸を出てまもない下総の山崎宿(いまの千葉県野田市)で、副長の原田左之助が隊を離れます。なぜ離れたのか、はっきりした理由は残っていません。
江戸へ引き返した原田は、上野の彰義隊に加わりました。5月15日の上野戦争で傷を負い、2日後の5月17日、本所の旗本・神保氏の屋敷で亡くなったとされます。29歳でした(上野戦争とは)。墓の場所はわかっていません。生き延びて大陸へ渡り、馬賊の頭目になったという伝説まで生まれたのは、その最期がはっきりしないからでもあります。
北関東での戦い

鹿沼で大鳥軍と合流し、宇都宮へ
靖兵隊は下総の岩井(いまの茨城県坂東市)、下野の室をへて新政府軍の間をすり抜け、北へ進みました。4月19日、下野の鹿沼宿で、大鳥圭介の旧幕府軍と合流します。この日、土方歳三らの別動隊が宇都宮城を落としており、靖兵隊は大鳥の本隊とともに宇都宮に入りました(宇都宮城の戦いとは)。
近藤と別れた永倉が、宇都宮で再び土方と同じ軍の中にいたことになります。
壬生・安塚で敗れ、今市へ
4月22日、旧幕府軍は宇都宮の南西、壬生に集まった新政府軍を攻めますが、安塚で敗れます。この夜の戦いは「安塚の戦いとは」にくわしくまとめています。靖兵隊もこの戦いで敗れ、隊長格の米田圭次郎をはじめ多くの負傷者を出して、日光街道の今市宿まで退きました。翌23日には宇都宮城も新政府軍に奪い返され、旧幕府軍は日光、そして会津へと退いていきます。
今市の戦いと、矢田賢之助の戦死
今市で数日休んだあと、靖兵隊は永倉・矢田ら60人あまりで今市方面へ出陣しました。この戦いで士官取締の矢田賢之助が顔に弾を受けて戦死し、隊は戦死およそ20人、負傷およそ30人という大きな損害を出して、北の高徳宿へ退きます。この今市の戦いは「今市の戦いとは」にくわしくまとめています。それでも高徳では、攻め寄せた土佐藩兵との戦いに勝っています。
| 日付 | 場所 | できごと |
|---|---|---|
| 4月10日 | 江戸 | 米田圭次郎の歩兵隊とともに江戸を脱出 |
| 4月中旬 | 山崎宿 | 原田左之助が離隊し、江戸へ戻る |
| 4月19日 | 鹿沼宿 | 大鳥圭介の旧幕府軍と合流。同じ日に宇都宮城が落ちる |
| 4月22日 | 壬生・安塚 | 新政府軍に敗れ、今市へ退く。米田ら負傷者多数 |
| 閏4月 | 今市 | 今市方面への出陣で矢田賢之助が戦死。戦死約20人・負傷約30人 |
| 閏4月 | 高徳 | 土佐藩兵との戦いに勝つ |
| 閏4月21日 | 高徳→会津 | 永倉と芳賀が、日光を取り返すための援軍を求めて会津へ向かう |
日付は、永倉の回想とそれをもとにした記録によるもので、ずれがある可能性があります。
永倉は会津・米沢へ
会津へ援軍を頼みに
閏4月21日、芳賀と永倉は、日光にいた輪王寺宮から日光を取り返すよう命じられ、会津藩へ援軍を求めに向かいました。隊の指揮は林信太郎と前野五郎に託されます。永倉が靖兵隊を直接率いて戦ったのは、ここまででした。
米沢に潜伏、町人姿で江戸へ
戦況が悪くなると、芳賀と永倉は米沢藩士の雲井龍雄の手引きで米沢に身をひそめます。そこで会津藩の降伏(9月22日)を知りました。もう戦う場所はありません。二人は町人の姿に変え、12月27日に東京(江戸)へ戻りました。
残った隊士たちのその後
永倉と芳賀が去ったあとも、靖兵隊の隊士たちは戦い続けました。8月には下野の高原宿で前野五郎が隊を託されて会津へ向かい、8月30日の大内峠の戦いで敗れています。前野はこのあと、知り合いの薩摩藩士を頼って降伏しました。
新遊撃隊とは
残った隊士の多くは、一部を除いて近藤隼雄の率いる「新遊撃隊」に組み込まれました。旧幕府には、伊庭八郎・人見勝太郎らの「遊撃隊」(講武所の剣客などでつくった将軍の親衛隊)がありましたが、新遊撃隊はそれとは別の、戊辰戦争のなかで旧幕府の脱走兵を集めてつくられた部隊の一つです。くわしい記録はあまり残っておらず、隊長の近藤隼雄についても、近藤勇とは別人であること以外はよくわかっていません。
弘道館の戦いから銚子へ
9月に会津藩が降伏すると、新遊撃隊は、会津から引き上げてきた水戸藩の諸生党(市川三左衛門ら)とともに水戸へ向かいます。10月1日、水戸城の三の丸にある弘道館にたてこもって城の兵と撃ち合いましたが、1日で敗れました(弘道館の戦い。天狗党と諸生党の抗争とは)。歩兵取締の林信太郎は、この敗走のなかで、10月5日に討たれたと伝わります。
水戸を逃れた一行は南へ下り、10月4日の夜、下総の銚子に近い松岸に船で上がりました。ここで降伏した相手が、上野の高崎藩です。
なぜ銚子に高崎藩がいたのか
高崎藩(大河内松平家)は上野の大名ですが、遠く離れた下総の銚子にも、およそ5千石の飛び地を持っていました。銚子の飯沼に陣屋を置いて、この領地を治めていたのです。水戸から逃げてきた旧幕府の兵が自分の領地に上がってきたので、陣屋の高崎藩兵がその降伏を受けることになりました。上野の藩の兵が、太平洋岸の港町で戊辰戦争の後始末をしていたのは、江戸時代の大名の領地が、こうして各地に散らばっていたからです。
芳賀宜道の最期と、永倉の後半生
深川で斬られた芳賀
東京へ戻ってまもない明治2年(1869)1月15日、芳賀宜道は深川冬木町で、かつての因縁の相手・富士重本と、その配下の隊士に斬られて亡くなりました。永倉の記すところでは、戊辰戦争の話になり、浪士はどうせ官軍に討たれて助からないだろうと言われた芳賀が、相手の刀を奪おうと飛びかかり、もみ合いのうちに斬られたといいます。ともに戦い抜いた親友を、戦いが終わったあとで失ったことになります。
松前藩への帰参、そして杉村義衛へ
永倉はこのあと、もとの主家である松前藩への帰参を許されます。明治3年に藩医・杉村家の婿養子となって北海道の松前へ渡り、のちに杉村義衛と名を改めました。明治9年には、東京の板橋に近藤勇と土方歳三の供養塔を建てています(【現地取材】近藤勇の墓と板橋刑場跡)。家臣になれと言われて袂を分かった相手を、永倉は最後まで同志として弔いました。
晩年は小樽に住み、新聞記者に新選組の思い出を語ります。それがのちに『新撰組顛末記』としてまとめられ、新選組の姿を今に伝える貴重な証言となりました。大正4年(1915)、77歳で亡くなっています。
この部隊が示したもの(筆者の感想)
「近藤と別れた永倉は、その後どうしたのか」。調べてみると、答えははっきりしていました。永倉は戦いから降りたのではなく、自分たちで部隊をつくって戦い続けていたのです。しかも宇都宮では、別れたはずの土方と同じ軍の中で戦っていました。近藤と永倉を分けたのは「戦うか、やめるか」ではなく、「主君と家臣として戦うのか、同志として戦うのか」という違いだったのだと思います。
ただ、靖兵隊は大きな部隊ではありませんでした。剣の腕で名を上げた永倉が、洋式の歩兵と並んで戦い、今市では矢田賢之助ら多くの仲間を失っています。剣客の時代が終わり、銃と大砲の戦いに変わっていく中で、新選組の幹部たちがそれぞれの道を探していた姿が、この小さな部隊から見えてきます。
そしてもう一つ。決裂の場面を語ったのは、生き残った永倉自身です。近藤の側の言い分は残っていません。それでも、袂を分かった近藤の供養塔を板橋に建てたのも永倉でした。決裂の言葉の強さと、その後の弔いの深さの両方を合わせて読むと、二人の関係の本当のところが少し見えてくる気がします。
現地を歩く ― 靖兵隊ゆかりの地
- 大久保稲荷神社(東京都江東区森下):勝沼から戻った隊士が集まった旗本・大久保主膳正の屋敷の跡。屋敷の稲荷社が神社として残ります
- 近藤勇と土方歳三の供養塔(東京都北区滝野川、JR板橋駅前):明治9年に永倉らが建てたもの
- 宇都宮城址公園(栃木県宇都宮市):靖兵隊が大鳥軍とともに入った宇都宮城の跡。土塁と櫓が復元されています
- 今市宿(栃木県日光市今市):日光街道の宿場。靖兵隊が退いて休み、矢田賢之助が戦死した今市の戦いの舞台です
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参考にした資料
- 永倉新八『新撰組顛末記』(新人物往来社)
- Wikipedia「靖兵隊」「永倉新八」「芳賀宜道」「原田左之助」
- 「大久保主膳正邸跡」(新選組リンク)
文:佐藤秀信
※行軍図・イラストはイメージです。永倉新八の肖像は古写真


