2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

松平容保(まつだいら かたもり)は、会津藩の九代藩主です。文久二年(1862年)、周囲の反対を押して京都守護職を引き受け、京都の治安を守るために新選組を配下に置きました。孝明天皇からは深く信頼され、その気持ちを記した宸翰(天皇直筆の手紙)を生涯肌身離さず持っていたと伝わります。
しかし戊辰戦争では「朝敵」とされ、会津若松城に一か月にわたって立てこもった末に降伏しました。大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順が斬られたとき、その妻子が逃れていった先が会津でした。
松平容保の大河『逆賊の幕臣』での配役は、2026年10月24日の時点ではまだ発表されていません。発表があり次第、この記事に追記します。
松平容保とは?—先に答え
| 読み方 | まつだいら かたもり |
|---|---|
| 生没 | 天保六年十二月二十九日(1836年2月15日)〜明治二十六年(1893年)十二月五日 |
| 生まれ | 江戸・四谷の美濃高須藩邸。高須藩主・松平義建の六男。会津藩主・松平容敬の養子となりました |
| 何をした人 | 京都守護職として京都の治安を担い、新選組を配下に置きました。八月十八日の政変、禁門の変で長州勢を退け、孝明天皇の信頼を得ました。戊辰戦争では会津若松城で籠城し、降伏しました |
| 小栗との接点 | 鳥羽伏見の敗戦後、江戸城でともに抗戦を主張した側でした。小栗が斬られる直前、小栗の妻子は会津へ逃れ、会津藩士の家に身を寄せました |
| 明治以降 | 謹慎ののち赦され、日光東照宮の宮司を務めました |
高須の四兄弟—会津へ養子に
容保は、尾張藩の分家である美濃高須藩主・松平義建の六男として生まれました。兄弟には、尾張藩主となった徳川慶勝(義勝)、一橋家を継いだ一橋茂栄、桑名藩主となった松平定敬がいて、のちに「高須四兄弟」と呼ばれます。幕末の動乱の中で、この兄弟は新政府側と旧幕府側に分かれていくことになります。
容保は会津藩主・松平容敬の養子となり、嘉永五年(1852年)に会津藩九代藩主となりました。会津藩には、藩祖・保科正之が残した「将軍家に忠勤を尽くせ」という家訓があり、それが容保の生き方を大きく決めていきます。
京都守護職—新選組を預かる
文久二年(1862年)、幕府は京都の治安を守るため、新たに京都守護職を設け、容保に就任を求めました。尊王攘夷派の浪士が「天誅」と称して暗殺を繰り返す京都の警備は、誰もが避けたい役目でした。家老の西郷頼母らは強く反対しましたが、容保は家訓を重んじて引き受けます。
京都に入った容保は、翌文久三年、江戸から上ってきた浪士組の一部、近藤勇や土方歳三らを会津藩の預かりとしました。これがのちの新選組です。新選組と会津藩の関係は新選組と会津藩で詳しく扱っています。
同じ年の八月十八日の政変では、薩摩藩と組んで長州藩と急進派の公家を京都から追い出しました。孝明天皇はこの働きを喜び、容保に宸翰と御製(和歌)を与えています。容保はこれを竹筒に入れ、生涯身につけていたと伝わります。元治元年(1864年)の禁門の変でも、長州藩の軍勢を退けました。
鳥羽伏見から会津へ
慶応二年(1866年)に孝明天皇が亡くなり、翌年に徳川慶喜が大政奉還を行うと、容保の立場は一気に苦しくなります。慶応四年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、容保は慶喜とともに大坂城を脱出し、軍艦で江戸に戻りました。
江戸城では、勘定奉行の小栗忠順らが抗戦を主張しましたが、慶喜は恭順を選び、小栗を罷免します。容保も江戸を離れて会津に帰り、謹慎の意を示しました。しかし新政府は会津藩を「朝敵」として許さず、奥羽越の諸藩が会津を救おうとして結んだ奥羽越列藩同盟とともに、戦いは東北へと広がっていきます。
小栗忠順の妻子が逃れた会津
慶応四年閏四月、上州権田村に移っていた小栗忠順は、新政府の東山道軍に捕らえられ、取り調べもないまま烏川の河原で斬られました。その直前、小栗の妻・道子、母・くに、養女・鉞子らは、家臣に守られて権田村を脱出し、山を越えて会津へ逃れています。
一行は会津藩士・横山主税の家に身を寄せ、身ごもっていた道子はそこで娘を産みました。会津が戦場となる中で、小栗の家族は会津の人々に守られて生き延びたのです。容保自身がこの一行に関わったという記録は見当たりませんが、小栗家と会津は、こうして深く結びつきました。詳しくは小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのかをご覧ください。
会津戦争—一か月の籠城
慶応四年八月、母成峠を破った新政府軍は一気に会津若松の城下に攻め込みます。白虎隊の悲劇が起きたのはこのときです。容保は会津若松城(鶴ヶ城)に立てこもり、およそ一か月にわたって砲撃に耐えましたが、明治元年(1868年)九月二十二日、降伏しました。
容保は東京で謹慎し、会津藩は斗南藩として下北半島へ移されました。明治五年(1872年)に赦され、明治十三年(1880年)には日光東照宮の宮司となります。明治二十六年(1893年)、東京で亡くなりました。孝明天皇の宸翰は、最後まで手元にあったといわれます。
大河『逆賊の幕臣』と松平容保
京都の政局、鳥羽伏見、江戸城での評定、そして小栗の家族の会津逃避行と、容保と会津藩は小栗の後半生の物語に深く関わります。2026年10月24日の時点で配役は発表されていませんが、登場する可能性は高いと考えられます。ただし、これは推測です。
松平容保のゆかりの地
- 会津若松城(鶴ヶ城)(福島県会津若松市)。詳しくは【現地取材】会津若松城(鶴ヶ城)と会津藩
- 会津松平家墓所・院内御廟(福島県会津若松市)
- 金戒光明寺(京都市左京区)。京都守護職の本陣が置かれた寺です
- 日光東照宮(栃木県日光市)
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
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- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
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小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
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▶ 小栗忠順のゆかりの地を歩く(現地取材)
- 【現地取材】小栗上野介はどこで生まれたか—生誕地・神田駿河台と、横須賀のゆかりの地を歩く
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参考資料
山川浩『京都守護職始末』、星亮一『松平容保』、会津若松市「鶴ヶ城」案内、東善寺「小栗夫人一行の会津への逃避行」、コトバンク「松平容保」。



