2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
群馬県安中市の旧城下に、茅葺きの小さな長屋が残っています。「新島襄旧宅」です。同志社をつくった新島襄が、アメリカから帰国した明治7年(1874)、10年ぶりに両親と再会した家です。
2026年10月に安中城跡を歩いたあと(【現地取材】安中城跡と安中藩を歩く|郡奉行役宅と武家長屋、小栗上野介の捕縛を命じられた三藩の一つ、新島襄旧宅とめがね橋)、この旧宅に立ち寄りました。中では案内の方がていねいに話をしてくださり、新島が「本家の船」に乗って箱館へ向かったこと、そこから一文無しで国を抜け出したことを教えてくれました。この記事では、旧宅の展示と案内の方の話をもとに、安中藩士の子が国の禁を破ってアメリカへ渡るまでをたどります。

新島襄の密航—先に答え
| 新島襄とは | 安中藩士の子(幼名・七五三太)。天保14年(1843)、江戸神田の安中藩上屋敷で生まれる。のちに同志社英学校(いまの同志社大学)をつくった教育者・宗教家 |
|---|---|
| 箱館までの船 | 備中松山藩の洋式帆船「快風丸」。備中松山の板倉家は、安中の板倉家の本家にあたる |
| 密航 | 元治元年(1864)6月、箱館からアメリカ船ベルリン号でひそかに出国。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、約1年かけてボストンへ |
| なぜ国を出たか | アメリカや外国のことを学びたかったから。入札(選挙)で国の代表が決まるような、日本とまったく違うしくみに強くひかれていた |
| アメリカで | 船主ハーディ夫妻に助けられて学校へ。キリスト教の信者となり、アーモスト大学などで学ぶ |
| この家 | 江戸から引き揚げた新島家が明治2年から住んだ家。明治7年11月、帰国した新島がここで両親と再会し、約3週間滞在した |
「新島襄旧宅」—両親が暮らした二軒長屋
旧宅の展示によると、この家には、明治維新で江戸から引き揚げてきた新島家の祖父・弁治、父・民治、母・とみ、弟・双六らが、明治2年(1869)から9年まで住んでいました。もとは二軒長屋で、昭和37年(1962)に空き家になったのをきっかけに保存の動きが高まり、新島家が住んでいた東半分を少し西の現在地に移し、外観を元の二軒長屋の形に戻しています。安中市の史跡です。

旧宅の前には、安中市が立てた「新島旧邸」の説明板があります。ボストンに着いてから帰国するまでの歩み、帰国後に竜昌寺を借りて演説したこと、安中が「国内キリスト教初伝の地」となったことが、短い文章にまとめられていました。


中に上がると、土間には番傘や膳が置かれ、奥には囲炉裏の間が続きます。新島の胸像の脇には、大河ドラマ『八重の桜』の撮影で使われたという草鞋も下がっていました。




13歳で蘭学、そして「外の世界」へ
新島は、藩主・板倉勝明の命で、13歳のころから蘭学を学びました。勝明は、藩士を碓氷峠まで走らせた「安政遠足」で知られる、学問好きの殿様です(【現地取材】安中城跡と安中藩を歩く|郡奉行役宅と武家長屋、小栗上野介の捕縛を命じられた三藩の一つ、新島襄旧宅とめがね橋)。新島はその後、漢学や航海術も学びますが、藩邸の中で机に向かう毎日に、だんだん息苦しさを感じていきます。

転機になったのが、一隻の船でした。
本家・備中松山藩の帆船「快風丸」
旧宅の展示「帆船 快風丸」によると、快風丸は備中松山藩(いまの岡山県高梁市)が買い入れた洋式の帆船です。そして展示には「同藩板倉家は、安中藩板倉家の本家にあたる」とはっきり書かれていました。
文久2年(1862)11月、新島は備中松山藩主・板倉勝静の許しを得て快風丸に乗り込み、江戸湾から備中の玉島(いまの岡山県倉敷市)まで航海します。これが、初めて「外の世界」を見る機会になりました。この開放的な船旅が、安中藩での閉じた暮らしにうんざりしていた新島に、「家出」を考えさせるきっかけになった、と展示は書いています。

2年後の元治元年(1864)、快風丸が箱館(函館)へ向かうと知った新島は、もう一度勝静の許しを得て、3月に江戸湾を出ました。案内の方が「箱館までは本家の備中松山藩の洋船に乗せてもらったんですよ」と話してくれたのが、この船です。快風丸そのものについては快風丸【備中松山藩 スクーナー船 幕末軍艦】にまとめています。


皮肉なのは、その4年後です。快風丸を持っていた本家の板倉勝静は、戊辰戦争で「朝敵」とされ、のちに箱館の五稜郭まで落ちのびました(備中松山藩/板倉家5万石:板倉勝静 老中主座を務めた藩主自ら函館五稜郭まで転戦した備中松山藩)。新島が国を抜け出したのと同じ箱館に、こんどは本家の殿様が、追われる身としてたどり着いたのです。
箱館から密航—一文無しでボストンへ
箱館に着いた新島は、ロシア領事館の司祭ニコライのもとで日本語を教えながら、外国へ渡る機会をうかがいました。そして元治元年6月、夜にまぎれて小舟で港を出て、アメリカの商船ベルリン号に乗り込みます。当時、許しなく国を出ることは重い罪でした。
旧宅にある「新島襄 密出国時の航路図」を見ると、その旅の長さがわかります。箱館から上海へ。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、香港、サイゴン(いまのホーチミン)、マニラに寄り、インド洋を渡って喜望峰を回り、大西洋を北上して、翌慶応元年(1865)にボストンに着いています。ほぼ1年がかりの航海でした。

案内の方によれば、新島はこのとき、ほとんど一文無しだったそうです。船では雑用をこなして乗せてもらい、ワイルド・ローヴァー号のテイラー船長には「ジョー」と呼ばれました。のちの「襄」という名は、ここから来ています。

なぜ国を出たのか—「入札で代表を決める国」
案内の方は、新島が国を出た理由を「アメリカや外国のことを学びたかったから」と話してくれました。とくに新島の心をとらえたのが、入札、つまり選挙で国の代表が決まるというアメリカのしくみだったといいます。新島は若いころ、アメリカの地理や政治を紹介した漢文の本を読み、大統領を人々が選ぶ国があることを知って、強く心を動かされたと伝わっています。
藩主の命令がすべてで、身分で生き方が決まる時代です。「上に立つ人を自分たちで選ぶ」という話は、藩邸の長屋で育った若い藩士には、想像もつかない世界だったのでしょう。
船主ハーディとの出会い、そして信仰
ボストンで新島を迎えたのが、ワイルド・ローヴァー号の船主アルフィーアス・ハーディ夫妻でした。夫妻は新島の身の上を聞いて学費を出し、フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドーヴァー神学校で学ばせます。新島は「ジョセフ・ハーディ・ニイシマ」と名のるようになりました。
案内の方の言葉を借りれば、「キリスト教の指導者たちと親しくなって、信者になった」。最初は外国の学問としくみを学ぶための旅でしたが、アメリカで新島は洗礼を受け、日本にキリスト教主義の学校をつくることを生涯の目標にしていきます。
10年ぶりの帰国、この家での再会
明治7年(1874)11月、新島は横浜に戻ります。旧宅の「あいさつ」の展示によると、11月29日の早朝、10年ぶりにこの家で両親と再会し、3週間ほど安中に滞在しました。そのあいだに旧安中藩医の千木良昌庵や、御用商人の湯浅治郎ら約30人の信者が生まれ、のちに彼らによって安中教会がつくられます。安中は、新島にとって日本での伝道の始まりの地になりました。

翌明治8年(1875)、新島は京都に同志社英学校を開きます。そこで力を貸したのが、元会津藩士の山本覚馬でした。そして明治9年、覚馬の妹・八重と結婚します。鶴ヶ城(【現地取材】会津若松城(鶴ヶ城)と会津藩|一ヶ月の籠城に耐えた「朝敵」の城)で銃を取った八重が、安中藩士の子の妻になったわけです。八重が夫のふるさと安中を何度も訪ねていたことは、【現地取材】安中城跡と安中藩を歩く|郡奉行役宅と武家長屋、小栗上野介の捕縛を命じられた三藩の一つ、新島襄旧宅とめがね橋で紹介しました。



新島は同志社を大学にするための募金に走り回るさなかに倒れ、明治23年(1890)1月、神奈川県の大磯で亡くなりました。46歳でした。旧宅には、東京・神田錦町に立つ「新嶋襄先生生誕之地」碑の写真も展示されています。

旧宅のとなり—「漆園の記碑」
旧宅の敷地には、もう一つ碑があります。安中藩主・板倉勝明が、安政3年(1856)に領内の空き地に100万株の漆の苗木を植えさせた、その利益の分け方を刻んだ「漆園の記碑」です。利益を四つに分け、田の持ち主、費用、役人、そして貧しい人々に配ると定めていました。けれども翌年に勝明が亡くなり、苗木も洪水や野火で失われて、計画は成功しなかったといいます。新島に蘭学を命じた殿様は、こんなふうに藩を豊かにしようとしていました。

見学メモ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 群馬県安中市安中1丁目。安中市史跡(昭和39年指定) |
| 開館時間 | 9:00〜17:00(入館は16:30まで)。冬期(12〜2月)は16:30まで(入館は16:00まで) |
| 休館日 | 月曜(祝日の場合は翌平日)、年末年始 |
| 観覧料 | 無料 |
| 駐車場 | 約15台(バスは不可) |
| 交通 | JR安中駅からバスで約15分、「安中消防署前」下車、徒歩5分 |
旧宅の近くには、安中教会(新島襄記念会堂)や郡奉行役宅・武家長屋もあり、歩いて回れます。開館時間や料金は変わることがあります。出かける前に安中市の案内で確かめてください。
✎ 筆者のひとこと
旧宅では、案内の方からいろいろとお話を聞くことができました。箱館から密航したこと、箱館までは本家の備中松山藩の洋船に乗せてもらったこと、アメリカや外国のこと、たとえば入札で藩主や大統領が決まるような制度を学びたかったこと。そして、キリスト教の指導者たちと親しくなって信者になったこと。
しかも、一文無しだったらしいですよ。大志を抱いて、一文無しで、国の禁を破って国を出るんですから、昔の人はすごいですよね。
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参考資料:新島襄旧宅の展示(安中市教育委員会)と案内の方のお話、安中市の説明板「新島旧邸」「漆園の記碑」、新島襄旧宅の観覧案内、Wikipedia日本語版「新島襄」「快風丸」ほか。写真はすべて筆者撮影(2026年10月)。展示物の写真は、旧宅で公開されているものを撮影しました。

