山内容堂とは何をした人物か—分家から藩主へ、「鯨海酔侯」と四賢侯。吉田東洋の登用、勤王党の弾圧、大政奉還の建白と品川の墓

山内容堂の肖像

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山内容堂の肖像
山内容堂(豊信)

山内容堂(やまうち ようどう)は、土佐藩の第十五代藩主です。名は豊信、容堂は号。分家に生まれ、本来は藩主になるはずのなかった人が、先代二人の急死で土佐二十四万石を継ぎました。

吉田東洋を起用して藩政を改め、松平春嶽・伊達宗城・島津斉彬とともに「四賢侯」と呼ばれる一方、土佐勤王党を弾圧して武市半平太に切腹を命じたのも容堂です。そして最後には、後藤象二郎の献策を入れて将軍に大政奉還を建白しました。身分の頂点にいて、上士と下士のあいだで揺れ続けた殿様の生涯を、生まれ、改革、隠居、勤王党の処断、大政奉還、明治、ゆかりの地の順にたどります。

目次

山内容堂とは—先に答え

生没 文政十年(1827年)十月九日、高知城下の分家・南屋敷に生まれる。明治五年(1872年)六月二十一日、東京で死去。享年四十六(四十五とする案内もある)
身分 土佐藩の第十五代藩主。分家の山内豊著の子
名前 名は豊信、号は容堂。自ら「鯨海酔侯」と名乗った
藩主になった経緯 嘉永元年、十三代豊熙・十四代豊惇が相次いで亡くなり、分家から本家を継ぐ
幕末に何をした 吉田東洋を起用して藩政改革。四賢侯の一人。将軍継嗣問題で一橋派に立ち、安政の大獄で隠居・謹慎
勤王党 復権後、土佐勤王党を弾圧し、慶応元年に武市半平太に切腹を命じる
大政奉還 慶応三年十月三日、後藤象二郎の献策を入れ、自らの名で大政奉還を建白
墓 東京都品川区東大井、大井公園の奥(品川区指定史跡)

生まれ—藩主になるはずのなかった人

山内容堂は文政十年(1827年)十月九日、高知城下の南屋敷に生まれました。父は山内家の分家にあたる山内豊著です。本家を継ぐ立場ではありませんでした。

ところが嘉永元年(1848年)、十三代藩主の豊熙が亡くなり、跡を継いだ十四代の豊惇も、家督を継いでわずか十日あまりで急死します。藩主が相次いで亡くなれば、家が取りつぶされるおそれもありました。豊惇の死はしばらく伏せられ、容堂がその養子という形で本家を継ぐことになります。このとき、薩摩の島津斉彬らが幕府への働きかけを助けたとされます。

土佐の身分でいえば、容堂は「藩主の家」という一番上の段にいます。その下に上士、白札、郷士と続く段の全体は、土佐藩の有名人を身分で分けるとにまとめています。

吉田東洋の起用と四賢侯

嘉永六年(1853年)、ペリーが来航すると、容堂は意見書をまとめ、その起草にあたった吉田東洋を参政に抜擢しました。東洋は家柄より能力で人を選び、法典をつくり、財政を立て直していきます。

容堂は、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、薩摩の島津斉彬とともに「四賢侯」と呼ばれ、幕政にも意見をもつ大名として知られるようになります。将軍家定の跡継ぎをめぐっては、一橋慶喜を推す一橋派に立ちました。

安政の大獄で隠居

しかし、将軍の跡継ぎは紀州の家茂に決まり、大老の井伊直弼は一橋派の大名を処罰しました。安政の大獄です。容堂は安政六年(1859年)、家督を豊惇の弟の豊範に譲って隠居し、さらに幕府から謹慎を命じられました。まだ三十代の前半です。

容堂は酒と詩を愛し、自ら「鯨海酔侯」と名乗りました。土佐の海の鯨のように大酒を飲む殿様、という意味です。「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄されたという話もあり、その立場の揺れを言い当てた言葉として、いまもよく引かれます。

勤王党の弾圧—武市半平太の切腹

隠居中の文久二年(1862年)、土佐では東洋が勤王党に斬られ、藩は一時、勤王党の勢いに押されます。容堂は謹慎を解かれて復権し、文久三年に京都で八月十八日の政変が起こって尊王攘夷派が退けられると、土佐に戻って藩政の実権を握りました。

容堂がまず手をつけたのが、勤王党の取り締まりでした。九月に武市半平太を投獄し、取り調べには後藤象二郎らをあてています(後藤象二郎とは)。慶応元年(1865年)閏五月十一日、武市は切腹、岡田以蔵は斬首となりました(岡田以蔵とは)。

容堂にとって東洋は、自分が見いだした家臣でした。その東洋を斬った勤王党を許さなかったのは、ある意味で自然なことです。一方で、勤王党の多くは郷士や庄屋の出で、容堂が郷士そのものを嫌ったと書かれることもありますが、事典にはそこまでの記述はありません。容堂が晩年、武市の名を口にして悔やんだという話も伝わりますが、これも伝記に載る伝えです。

大政奉還の建白

大政奉還の建白書を書く大名(イメージイラスト)
大政奉還の建白書に筆を入れる場面(イメージイラスト)

慶応三年(1867年)、長崎から戻った後藤象二郎は、坂本龍馬と練った大政奉還の案を容堂に説きました。戦わずに将軍が政権を朝廷に返せば、徳川家も守られ、土佐も新しい政治の中に席を得られる。徳川家に恩義を感じていた容堂にとって、受け入れやすい案でした。

十月三日、建白書は容堂の名で老中板倉勝静を通じて幕府に出され、十四日、徳川慶喜は政権を返すことを申し出ます(大政奉還とは)。

同じ年の十二月九日、王政復古の後の小御所会議で、容堂は慶喜を会議に呼ばないまま処分を決めようとする岩倉具視らに強く反対し、激しい言い合いになりました。このとき容堂が「幼い天子を擁して権力を盗もうとしている」と言い、岩倉にたしなめられて謝ったという話は『岩倉公実記』に出てくるものですが、後から書き加えられた話だとみる研究者もいます。

明治、そして品川の墓

戊辰戦争が始まると、容堂は土佐の兵が戦に加わることを抑えようとしましたが、京にいた藩兵は戦に加わり、土佐は新政府軍の主力の一つとなっていきました。乾(板垣)退助が率いた迅衝隊もその一つです(板垣退助とは)。

明治の新政府で容堂は議定、内国事務総裁などを務めましたが、明治二年(1869年)に病で職を退きます。明治五年(1872年)六月二十一日、東京で亡くなりました。遺言により、品川の大井の地に葬られています。

山内容堂ゆかりの地

山内容堂公誕生地(高知市追手筋二丁目)

生まれた南屋敷の跡には、誕生地の碑が立っています。

高知城と高知県立高知城歴史博物館(高知市)

高知城の向かいの高知城歴史博物館には、山内家に伝わる品が収められています。これまでの展示では、容堂が愛用したガラスの杯や、所用の陣羽織、大政奉還建白書の写しなどが紹介されてきました。

山内神社の容堂像(高知市鷹匠町)

山内家の歴代藩主をまつる山内神社には、杯を手にした容堂の坐像があります。

山内容堂の墓(品川区東大井)

大井公園の奥、土佐藩の下屋敷があった場所に墓があります。大きな円い墳丘の上に墓石を置いた形で、品川区の指定史跡です。

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参考資料

  • コトバンク「山内豊信」(日本大百科全書・日本人名大辞典・ブリタニカほか)
  • 国立国会図書館「近代日本人の肖像」山内豊信
  • 品川区観光協会「山内容堂墓所」
  • 高知県立高知城歴史博物館『没後150年 山内容堂』
  • 高知県立高知城歴史博物館「山内容堂の主張」
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