武市半平太とは何をした人物か—白札の剣客が結成した土佐勤王党。吉田東洋暗殺、上士格への昇進、獄中の自画像と切腹、ゆかりの地

武市半平太の自画像

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

武市半平太の自画像
武市半平太の自画像(獄中で描いたと伝わる)

武市半平太(たけち はんぺいた)は、土佐勤王党を結成し、土佐藩を尊王攘夷へ動かそうとした人物です。号は瑞山。剣の腕で知られ、江戸の桃井春蔵の道場では塾頭を務め、高知の道場には岡田以蔵や中岡慎太郎も通いました。

家は「白札」。郷士より上で、上士に準じる扱いを受ける段でした。上と下のあいだに立つその位置は、勤王党の結成から最期の扱いまで、武市の生涯についてまわります。生まれと家、剣、勤王党と吉田東洋暗殺、京都での日々、投獄と切腹、獄中の絵、ゆかりの地の順にたどります。

目次

武市半平太とは—先に答え

生没文政十二年(1829年)九月二十七日、土佐国長岡郡吹井村(いまの高知市仁井田)に生まれる。慶応元年(1865年)閏五月十一日、切腹。享年三十七
身分郷士の家で、家格は上士に準じる白札
名前名は小楯、号は瑞山。京都では柳川左門とも名乗った
剣一刀流を修め、江戸では鏡心明智流・桃井春蔵の士学館で塾頭。高知でも道場を開く
幕末に何をした文久元年に土佐勤王党を結成。翌年、参政・吉田東洋を党員に斬らせ、藩の方針を変えさせた
京都他藩応接役として諸藩の志士と交わり、勅使の江戸下向に随行。上士格の留守居組に進んだ
最期八月十八日の政変後、山内容堂の弾圧で投獄。一年半あまりの獄中ののち切腹
墓高知市仁井田の旧宅の近く。瑞山神社が隣にある

生まれと家—「白札」という位置

武市半平太は文政十二年(1829年)九月二十七日、土佐国長岡郡吹井村(いまの高知市仁井田)に生まれました。父は武市半右衛門正恒。武市家はもとは郷士の家で、のちに白札の格を与えられています。

白札は、郷士のうち功のあった家を上士に準じて扱う段です。上士の席に連なることはできますが、上士の家に生まれた者から見れば、もとは郷士の家です。上からも下からも「向こう側の人」に見える位置だったともいえます。

妻の富子は郷士・島村家の娘で、夫婦の仲のよさはよく知られています。土佐の身分の段と、ほかの人物がどの家に生まれたかは土佐藩の有名人を身分で分けるとにまとめています。

剣の人—高知と江戸の道場

半平太は少年のころから一刀流を学び、高知で道場を開きました。安政三年(1856年)には江戸に出て、鏡心明智流の桃井春蔵の道場・士学館に入門し、塾頭を務めています。

高知の道場には、郷士や庄屋の若者が集まりました。岡田以蔵(岡田以蔵とは)や、のちの陸援隊長・中岡慎太郎もその一人です。剣の師弟関係が、そのまま勤王党の人のつながりになっていきました。

土佐勤王党と吉田東洋暗殺

土佐勤王党の結成(イメージイラスト)
勤王党の同志が血判を交わす場面(イメージイラスト)

文久元年(1861年)八月、半平太は江戸の土佐藩邸で土佐勤王党を結成しました。盟約に名を連ねた者は二百人ほどとされ、百九十二人という数も伝わります。顔ぶれの多くは郷士で、その次に庄屋が多く、上士はほとんどいませんでした。

藩をあげて尊王攘夷に向かわせたい半平太にとって、壁になったのが参政の吉田東洋でした。東洋は公武合体と開国の立場で藩政を握っており、半平太の意見は取り上げられませんでした。文久二年(1862年)四月八日の夜、勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵が東洋を斬ります(吉田東洋暗殺とは)。事典の多くは、半平太が党員に命じて斬らせたと書いています。

東洋がいなくなったあと、藩政は勤王党に近い門閥派の手に移り、藩主の山内豊範は兵を率いて京に上りました。勤王党がもっとも力をもった時期です。

京都での日々—白札から上士格へ

京に出た半平太は、他藩応接役として長州の久坂玄瑞や薩摩の志士たちと交わり、文久二年十月には、攘夷を幕府に迫る勅使・三条実美と姉小路公知の江戸下向に、姉小路の雑掌(柳川左門と名乗る)として随行しました。

この年の十二月、半平太は上士格の留守居組に取り立てられます。白札から上士の格へ進んだ例はそれまでなかったとされ、身分の線をまたいだ、ほとんどただ一つの瞬間でした。しかし、その地位は長く続きませんでした。

投獄と切腹

文久三年(1863年)、京都で八月十八日の政変が起こり、尊王攘夷派が一転して京を追われます。土佐では隠居の山内容堂が実権を取り戻し、勤王党の取り締まりに乗り出しました(山内容堂とは)。半平太は九月二十一日、高知城下の南会所に投獄されます。

取り調べには後藤象二郎らがあたりました(後藤象二郎とは)。半平太は東洋暗殺への関わりを認めませんでしたが、元治元年(1864年)に京都で捕らえられて送り返された岡田以蔵の自白などで、追及は厳しくなっていきます。

慶応元年(1865年)閏五月十一日、半平太は南会所で切腹しました。三十七歳でした。同じ日、岡田以蔵は斬首され、首をさらされています。上士に準じる白札として切腹を許された半平太と、斬首された以蔵。二人の最期の違いには、身分の段の違いがそのまま表れていると見ることができます。ただ、「白札だから切腹を許された」とはっきり書いた事典は見当たりません。腹を三度切ったという「三文字割腹」の話もよく知られていますが、これも事典には出てこない伝えです。

獄中の自画像

半平太は絵をよくし、獄中で描いた自画像が残っています。一年半あまりの牢の暮らしのなかで描かれたもので、妻や姉に送ったと伝わります。獄中で詠んだ「花は清香によって愛され、人は仁義をもって栄ゆ。幽囚何ぞ恥ずべき、只赤心の明らかなる有り」の詩は、いま瑞山神社の碑に刻まれています。

武市半平太ゆかりの地

高知のゆかりの地は、【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩くで写真とともに紹介しています。

旧宅・墓・瑞山神社(高知市仁井田)

高知市仁井田に旧宅(個人宅のため非公開)と墓があり、近くに瑞山神社と瑞山記念館があります。旧宅と墓は国の史跡です。

武市瑞山殉節の地(高知市帯屋町二丁目)

切腹した場所には「武市瑞山先生殉節之地」の碑が立っています。昭和二十八年(1953年)の建立です。

銅像(高知県須崎市)

須崎市浦ノ内の須ノ浦に、半平太の銅像があります。

あわせて読みたい

2027年NHK大河ドラマ

『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集

放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。

▶ 『逆賊の幕臣』特集を見る

参考資料

  • コトバンク「武市瑞山」(日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)
  • コトバンク「土佐勤王党」
  • 高知市「武市瑞山殉節の地」
  • 高知県観光「瑞山記念館」
  • 高知市 龍馬ゆかりの地コース(資料)
  • URLをコピーしました!
目次