| 野口健司 | |||
| 職名 | 副長助勤 | ||
| 出身 | 常陸水戸 | ||
| 終焉場所 | 京都 壬生 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
野口健司をもっと深く—水戸派で最後に残り、年の暮れに腹を切った
芹沢鴨の一派が消えていった文久三年、最後まで隊に残っていた水戸派の一人が野口健司です。けれどもその年の暮れ、突然腹を切ることになりました。
永倉新八と同門
天保十四年(1843)ごろの生まれで、水戸藩の出身です。江戸の百合元昇三の道場で神道無念流を学び、目録を得ました。同じ神道無念流の永倉新八とは同門にあたります。
壬生浪士組の副長助勤
文久三年(1863)二月、浪士組に加わって上京し、三月の壬生浪士組の結成に加わりました。副長助勤として、隊のはじめの幹部の一人となっています。水戸の出身であったことから、芹沢鴨の水戸派に属し、大坂での力士との乱闘にも関わったとされます。
暗殺の夜を逃れて
九月、芹沢と平山五郎が八木邸で斬られたとき、野口は島原の角屋に残っていて難を逃れました。その後も粛清されず、幹部として隊に残ります。
十二月二十七日の切腹
ところが文久三年十二月二十七日、野口は突然切腹を命じられ、安藤早太郎の介錯で腹を切りました。享年二十一。理由ははっきりしません。ささいなことで詰め腹を切らされたのではないかという見方や、水戸浪士の揉めごとに巻き込まれたという説があります。これで壬生浪士組の水戸派は、隊からいなくなりました。
野口健司の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保十四年(1843)ごろ | 水戸藩の出身として生まれる |
| 若いころ | 江戸の百合元昇三の道場で神道無念流を学び、目録を得る |
| 文久三年(1863)二月 | 浪士組に加わって京都へ上る |
| 文久三年三月 | 壬生浪士組の結成に加わり、副長助勤になる |
| 文久三年 | 大坂での力士との乱闘に関わったとされる |
| 文久三年九月十六日(十八日説もある) | 芹沢鴨と平山五郎が八木邸で斬られる。野口は島原の角屋に残っていて難を逃れる |
| 文久三年十二月二十七日 | 切腹を命じられ、安藤早太郎の介錯で腹を切る。二十一歳 |
野口健司を読み解く
水戸派の中の最年少
芹沢鴨の一派は、芹沢・新見錦・平山五郎・平間重助・野口の五人が中心でした。文政七年生まれとされる平間と比べると、野口は二十歳ほど若く、一派の中ではいちばん年下です。若さゆえに芹沢の側近というより、年長の仲間についていく立場だったのかもしれません。暗殺の夜に宴会の場の角屋に残っていたことも、芹沢たちと別に動ける若い隊士だったことをうかがわせます。
三か月残されたのはなぜか
芹沢と平山が斬られたあとも、野口は三か月ほど幹部として隊に残りました。すぐに除かれなかったのは、若く、近藤たちにとって大きな脅威ではなかったからだとも考えられます。また、永倉新八と同じ神道無念流の門人だったことも、試衛館派とのあいだをつなぐ要素になっていたかもしれません。それでも年の暮れには腹を切らされ、水戸派は隊から消えました。
介錯した安藤早太郎
野口の介錯を務めた安藤早太郎は、年長の隊士で、翌年の池田屋事件で深手を負って亡くなります。介錯は、切腹する者の苦しみを短くするための大事な役で、腕の確かな者が選ばれました。芹沢派の最後の一人の最期を、隊の古参が見届けたことになります。
葬儀に立った若い隊士
野口の葬儀では、馬越三郎が武田観柳斎とともに頼越人を務めたと伝わります。水戸派が消えたあとの隊で、若い隊士たちが仲間の最期を見送った場面です。芹沢派の最期は芹沢鴨と水戸派の最期にまとめています。
はっきりしないこと
切腹の理由は分かっていません。ささいなことで詰め腹を切らされたという見方、水戸浪士の揉めごとに巻き込まれたという説があります。
野口健司をさらに掘り下げる
大坂での力士との乱闘
文久三年六月、壬生浪士組の一行は、不穏な浪士の取り締まりのために大坂へ下りました。芹沢鴨をはじめ、山南敬助・沖田総司・永倉新八・斎藤一・平山五郎・野口健司・島田魁らです。一行が舟遊びのあと北新地へ向かう途中、道をゆずらなかった力士と揉めごとになり、ついには大勢の力士と斬り合いになりました。力士の側には死者も出ています。
この乱闘は、壬生浪士組の荒々しさを示す出来事としてよく語られます。のちに両者は和解し、壬生で相撲の興行が開かれたとも伝わります。野口は芹沢の一派としてこの一行に加わっていました。水戸派の若手として、芹沢のそばで行動していたことがうかがえます。
神道無念流という共通点
野口が学んだ神道無念流は、芹沢鴨も、試衛館の永倉新八も修めた流派です。近藤勇ら天然理心流の人々と、芹沢ら水戸派とは対立していましたが、剣の流派で見ると、永倉は芹沢や野口と同じ神道無念流の人でした。
派閥と流派は、必ずしも一致していなかったのです。永倉はのちの回想で、水戸派の人々について比較的くわしく書き残しています。同じ流派の者として、野口らを近藤派とはまた違う目で見ていたのかもしれません。流派ごとの隊士の顔ぶれは新選組隊士の剣術流派にまとめています。
なぜ年の暮れだったのか
野口が切腹した文久三年十二月二十七日は、年の瀬もおしせまったころでした。年が明けた元治元年正月には、将軍・徳川家茂が二度目の上洛を果たします。京都の治安を預かる新選組にとって、将軍を迎える前に隊をしっかりまとめておくことは大事な課題でした。
野口の切腹の理由は分かっていませんが、芹沢暗殺から三か月、隊の中に水戸派の者が一人だけ残っているという状態は、近藤らにとって落ち着かないものだったでしょう。新しい年と将軍の上洛を前に、隊の内側を整えておく—野口の死がそうした流れの中にあったと考えることもできます。ただ、それを示す記録はありません。
介錯をした安藤早太郎のその後
野口の介錯を務めた安藤早太郎は、翌元治元年六月の池田屋事件で深い傷を負い、七月に亡くなりました。野口の死から、わずか半年あまりのことです。仲間の首を落とした者も、まもなく戦いで命を落とす。文久三年から元治元年にかけての新選組は、隊の内でも外でも、死がすぐそばにある日々を送っていました。
野口健司と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 壬生・八木邸(京都市中京区壬生)—壬生浪士組の屯所。
- 島原・角屋(京都市下京区):芹沢暗殺の夜、野口が残っていた揚屋。
隊内の切腹・粛清の一覧は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。
参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、新選組研究の諸資料。切腹の理由には諸説があります。
文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
新選組をもっと知る本
水戸から来た野口の切腹は、芹沢派が消えていく流れの最後にあたります。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』を読むと、文久三年の隊の内側が見えてきます。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:根岸友山(平隊士)
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