安富才輔【新選組隊士 諸士取調役兼監察 幕末】

提灯を手に夜の京都を巡回する新選組隊士たち
安富才輔
職名 諸士取調役兼監察・馬術師範
出身 備中足守
終焉場所 備中足守
終焉方法 病没
足守藩士で、大坪流馬術の使い手として馬術師範を務めました。 会津では斎藤一に次ぐ副長役、箱館では土方歳三直属の陸軍奉行添役となります。 土方の最期を日野の土方家に手紙で伝えた人です。
目次

安富才輔をもっと深く—土方の最期を故郷へ伝えた人

箱館で土方歳三を看取ったと伝えられ、その死を日野の土方家へ手紙で知らせた隊士です。

足守藩士、大坪流の馬術

備中足守藩の藩士で、大坪流の馬術の使い手でした。名は一般には「安富才助」と書かれます。「才輔」は会津藩庁の記録の表記、「才介」は本人の書簡に見える表記で、諱は正儀です。生まれは天保十年(1839年)とされます。元治元年十月ごろ新選組に入り、伍長、諸士取調役兼監察、勘定方、馬術師範と、さまざまな役目を務めています。

会津では斎藤一に次ぐ副長役

甲州勝沼の戦いのあとは土方と別に動き、会津で合流します。会津では隊長の斎藤一に次ぐ副長役を務めました。その後は蝦夷地へ渡り、陸軍奉行並となった土方の直属として陸軍奉行添役に就いています。

「早き瀬に 力足らぬか 下り鮎」

明治二年五月、土方が戦死すると、安富はその最期を知らせる手紙を日野の土方家に宛てて書き、立川主税に託しました。手紙には、土方をしのぶ一句「早き瀬に 力足らぬか 下り鮎」が添えられています。

故郷の足守で没す

降伏後、明治三年に放免されて足守へ送られ、謹慎して暮らしました。明治六年五月二十八日、足守で亡くなっています。三十五歳ほどでした。墓は足守の田上寺にあると伝えられます。かつては殺されたという話が伝わっていましたが、それは誤りだったことが分かっています。

安富才輔を読み解く

馬術師範という珍しい役

安富は、大坪流の馬術の使い手で、新選組の馬術師範を務めました。新選組の師範は剣術・柔術・槍術などが中心で、馬術の師範は珍しい存在です。京都の市中見回りで馬を使う場面は多くありませんでしたが、隊の幹部が馬に乗るとき、戦場で馬を使うときには欠かせない技でした。安富は、伍長、監察、勘定方と、ほかにも多くの役を任されています。武芸だけでなく、帳簿や取り締まりもこなせる器用な人だったことがうかがえます。

斎藤一の次、土方の直属

会津では、隊長の斎藤一に次ぐ副長の役を務め、蝦夷地では土方歳三の直属になりました。京都時代からの古参が次々に倒れたり去ったりするなかで、安富は隊の後半を支えた中心人物の一人でした。新選組の組織の移り変わりは新選組の組織と役職にまとめています。

土方の死を伝えた手紙

土方歳三が箱館で戦死したとき、その最期を故郷の日野に知らせたのが安富の手紙でした。手紙は立川主税に託され、日野の土方家に届けられます。家族にとって、遠い箱館での死を知る手立ては、生き残った隊士の手紙と話しかありませんでした。土方の最期を伝えるこの手紙は、土方の死を知る大事な史料の一つになっています。手紙に添えられた「早き瀬に 力足らぬか 下り鮎」の句は、急流に逆らいきれずに下っていく鮎に、力尽きた土方の姿を重ねたものと読めます。

暗殺されたという話は誤り

安富は、戊辰戦争のあとに殺されたと伝えられてきました。しかし、これは誤って伝わった話で、実際には郷里の足守で亡くなったとみられています。新選組の隊士の最期には、このように言い伝えと実際が食い違う例が少なくありません。

安富才輔をさらに掘り下げる

足守藩—ねねの兄の家と、緒方洪庵の故郷

安富が仕えた備中足守藩は、いまの岡山市北区足守にあった二万五千石ほどの小さな藩です。藩主の木下家は、豊臣秀吉の妻・ねね(北政所、高台院)の兄、木下家定に始まる家でした。また、大坂で適塾を開き、福沢諭吉ら多くの門人を育てた蘭方医の緒方洪庵も、この足守藩士の家の出です。

ねねが晩年に建てた寺が、京都東山の高台寺です。のちに新選組を離れた伊東甲子太郎らの御陵衛士は、高台寺の塔頭・月真院に屯所を置き、「高台寺党」とも呼ばれました。ねねの兄の家に仕える藩の出の安富が、新選組の側に残って最後まで戦ったのは、ちょっとした歴史のめぐり合わせといえるかもしれません。

日本で最も古い馬術の流れ

安富が使った大坪流は、室町時代に始まったとされる、日本の馬術の中でも最も古い流派の一つです。多くの藩で馬術の基本として学ばれました。

京都の町を見回る新選組では、馬に乗る場面はそう多くありませんでした。ところが戊辰戦争に入ると、隊は伝令や偵察で馬を使う戦いを続けることになります。箱館で土方歳三が最期を迎えたのも、馬に乗って味方を励ましていたときだったと伝えられます。馬術師範だった安富が、戦場で土方のすぐそばにいたことは、偶然ではないのかもしれません。

「下り鮎」の句に込められたもの

安富が土方の死を悼んで添えた「早き瀬に 力足らぬか 下り鮎」の句は、秋に川を下っていく鮎の姿に、時の流れに抗いきれずに倒れた土方を重ねたものと読めます。土方自身も「豊玉」の号で俳句を詠んだ人で、句集『豊玉発句集』を残しています。句を詠む主を、句で送ったことになります。

手紙を受け取った日野の土方家や佐藤彦五郎にとって、この一句は、報告の言葉以上に土方の最期を思い描かせるものだったでしょう。戦いのさなかにあった隊士が、主の死を十七文字に託した—それは、新選組が剣だけの集団ではなかったことを示す小さな証でもあります。

備中から来た隊士たち

新選組には、安富のほかにも備中の出の隊士がいました。備中松山藩士の家に生まれた谷三十郎・谷万太郎・近藤周平の三兄弟です。谷兄弟が京都時代に隊の中心近くにいながら、慶応二年に長兄の三十郎が亡くなると、ほかの二人も隊の中心から離れていったのに対し、安富は箱館まで戦い抜きました。同じ備中から来た者でも、その歩みはまったく違っていました。

安富才輔と関わりの深い人たち

安富才輔のゆかりの地

  • 足守藩(岡山市北区足守)—出身の藩で、晩年を過ごし亡くなった地。
  • 五稜郭・一本木関門のあたり(函館市)—土方の最期の地。
  • 土方歳三資料館(東京都日野市)—安富の手紙が届けられた土方家。

参考にした資料:安富才輔の土方家宛て書簡、新選組の役職名簿類。

箱館で隊がどうなったのかは、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。

近藤勇が最後の百日でたどった道は、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。

新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。

新選組をもっと知る本

土方歳三の右腕として箱館まで従った安富の名は、京都の話が中心の回顧録にはあまり出てきません。永倉新八『新撰組顛末記』で京都を、子母澤寛『新選組始末記』で隊の全体像をつかむのが順序としてよいと思います。

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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

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