谷万太郎【新選組隊士 槍術師範 幕末】

壬生寺の境内で稽古する新選組隊士たち
谷万太郎
職名 槍術師範
出身 備中松山
終焉場所 大坂
終焉方法 病没
谷三兄弟の次男で、大坂に道場を開いた槍の名手です。 池田屋事件、ぜんざい屋事件に加わり、おもに大坂で活動しました。 兄の三十郎の死後に隊を離れ、明治も大坂で道場を続けました。
目次

谷万太郎をもっと深く—大坂に道場を開いた槍の名手

谷三兄弟の次男で、種田流の槍と直心流の剣を使った隊士です。隊の槍術師範として記録されるのは兄の三十郎で、万太郎を槍術師範とする書き方は兄弟の混同かもしれません。新選組の中でも、おもに大坂で活動した人でした。

備中松山から大坂へ

天保五年、備中松山藩士の次男として生まれ、幼いころから父に武術を学びました。安政三年ごろ谷家が不祥事で断絶すると、兄の三十郎とともに故郷を離れます。のちに大坂の南堀江町で道場を開きました。

池田屋と、ぜんざい屋事件

文久三年九月ごろ新選組に加わり、元治元年六月の池田屋事件では褒賞金二十両を受けています。その後、大坂で起きたぜんざい屋事件にも加わり、隊の中でもおもに大坂に詰めていました。

兄の死後、隊を離れる

兄の三十郎が亡くなったあと、新選組を離れました。明治以降も大坂で道場を続け、西南戦争のときには警視隊の抜刀隊長の候補に挙がったともいいます。明治十九年六月三十日に亡くなりました。満で五十一歳です。道場はのちに行き詰まり、晩年は商家の用心棒をして暮らしたとも伝わります。墓は大坂の本傳寺にあります。

谷万太郎の歩みを年表で

年できごと
天保五年(1835)十二月三日備中松山藩士・谷三治郎供行の次男として生まれる
安政三年(1856)ごろ谷家が不祥事で断絶し、兄の三十郎と故郷を離れる
その後公家・中山家の侍医、岩田文碩の食客となり、その娘スエと結婚。大坂南堀江町に道場を開く
文久三年(1863)九月ごろ新選組に加わる
元治元年(1864)六月池田屋事件で近藤隊に加わり、褒賞金二十両を受ける
元治元年十二月隊の編成で二番組に属する
慶応元年(1865)一月大坂のぜんざい屋事件で、兄・三十郎や阿部十郎らと土佐の大利鼎吉を討つ
明治大坂で町道場を続ける
明治十年(1877)西南戦争で、大阪府知事・渡辺昇の推薦により抜刀隊の長の候補になったとされる
明治十九年(1886)六月三十日死去

谷万太郎を読み解く

谷三兄弟という家族

新選組には、兄の谷三十郎、次男の万太郎、末弟の近藤周平(谷周平)の三兄弟がそろって加わっていました。兄は七番隊組長、弟は近藤勇の養子となり、兄弟そろって隊の中で重く扱われています。故郷を追われた浪人の兄弟が、新選組で居場所を得たといえます。

大坂に根を張った隊士

新選組の本拠は京都ですが、大坂にも、隊士の宿や連絡の拠点がありました。大坂で道場を開いていた万太郎は、その土地勘と人のつながりを生かして、大坂での探索や取り締まりに当たったと考えられます。ぜんざい屋事件は、大坂で土佐の浪士たちが大坂城を焼く計画を立てていたとされる一件で、谷兄弟が大坂の事情に通じていたからこそ動けた事件でした。

槍術師範という役

隊の中で万太郎は槍術師範を務めました。新選組には剣術のほかに柔術・槍術・砲術などの師範が置かれ、得意な者が隊士に教えていました。谷家は父から武術を受け継いだ家で、兄の三十郎も槍の名手として知られています。隊の師範の置き方は新選組の組織と役職でも紹介しています。

明治の大坂で

明治になっても万太郎は大坂で道場を続けました。西南戦争で抜刀隊の長の候補に挙がったという話は、元新選組隊士の腕前が明治になっても知られていたことを示しています。ただし、実際に抜刀隊を率いた記録はありません。

はっきりしないこと

谷家が断絶した「不祥事」が何だったのか、ぜんざい屋事件で誰がどのように大利を討ったのかは、伝え方がいくつかあります。

谷万太郎と「大坂の新選組」をさらに掘り下げる

道場が情報の入り口になった—ぜんざい屋事件

慶応元年正月のぜんざい屋事件は、大坂にいた土佐の浪士たちが大坂城の焼き討ちなどをたくらんでいるという知らせから始まりました。その知らせをもたらしたのは、谷万太郎の道場に通う門人だったと伝えられます。万太郎が大坂で開いていた道場は、剣や槍を教える場であると同時に、町のうわさや人の出入りが集まる場所でもあったのです。

新選組は京都に屯所を置いていましたが、大坂は京都と並ぶ政治と商いの中心で、幕府の大坂城もあります。大坂に土地勘のある隊士、それも町に根を張った道場主がいることは、隊にとって大きな強みでした。万太郎が「おもに大坂で活動した」のは、たまたまではなく、隊の中でそういう役割を担っていたからだと考えられます。事件の舞台になった南瓦屋町の石蔵屋は、ぜんざいを売る店だったことから、この名で呼ばれています。

故郷・備中松山藩の殿さまと新選組

万太郎の生まれた備中松山藩の藩主・板倉勝静は、幕末に老中を務め、十五代将軍・徳川慶喜を支えた人物です。家臣の山田方谷による藩政改革でも知られます。谷家は不祥事で藩を離れましたが、故郷の殿さまは幕府の中枢にいたことになります。

戊辰戦争で幕府方が敗れると、板倉勝静は東北へ逃れ、さらに榎本武揚の艦隊とともに箱館へ渡りました。箱館には土方歳三の率いる新選組がいました。藩を追われた谷兄弟は新選組に入り、その新選組の最後の戦いの地に、故郷の藩主がいたのです。万太郎自身はそのころすでに隊を離れて大坂にいましたが、谷家と備中松山藩の縁は、思わぬ形で新選組とつながっていました。

三兄弟の分かれ道

兄弟新選組での立場その後
谷三十郎(長男)七番隊組長・槍術師範慶応二年四月、祇園で急死。斬られたという説もある
谷万太郎(次男)槍術師範。大坂で活動兄の死後に隊を離れ、明治十九年に大坂で没
近藤周平(三男)近藤勇の養子兄の死後に養子縁組を解かれ、明治三十四年に没

三兄弟は、長男の三十郎の死をきっかけに、そろって新選組の中心から離れていきました。弟の周平が近藤勇の養子に迎えられていたことで、谷家は一時、隊の中でとくに重んじられる家になっていました。その後ろ盾が三十郎の死で崩れたとき、兄弟が隊にとどまる理由も薄れたのでしょう。万太郎が大坂の道場に戻ったのは、槍一本で生きてきた人らしい身の処し方だったともいえます。弟については近藤周平のページもご覧ください。

谷万太郎と関わりの深い人たち

谷万太郎のゆかりの地

参考にした資料:新選組の褒賞記録、大坂での活動に関する諸研究、Wikipedia「谷万太郎」。

池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。

新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。

新選組をもっと知る本

谷万太郎は大坂で槍の道場を開いていた人です。剣の話に偏りがちな新選組像を正すのに、永倉新八『新撰組顛末記』のような当事者の回顧録と、子母澤寛『新選組始末記』の聞き書きは役に立ちます。

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