天佑丸【薩摩藩 輸送船 幕末軍艦】

天佑丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 輸送船
機関 蒸気内車
備砲 0門
材質 鉄製
馬力 100馬力
写真 無
天佑丸のイメージイラスト
天佑丸のイメージ(イラスト)。記録にある船の型(輸送船・蒸気内車)をもとに描いたもので、実際の姿ではありません

万延元年11月に英国より薩摩藩が購入しました。原名は「イングランド」。
薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃にあい拿捕・焼却されました。

目次

所属した薩摩藩と、小松帯刀

この汽船・天佑丸を保有したのも、薩摩藩(島津家)です。西郷や大久保の陰に隠れがちですが、薩摩の家老・小松帯刀の働きも見逃せません。

小松は若くして藩の家老となり、五代友厚や坂本龍馬を支援し、藩の殖産興業と海軍増強を推し進めました。慶応二年(1866)の薩長同盟は、京都の小松の屋敷で会談が重ねられて成立したといわれます。表舞台での名声は控えめながら、維新の実現を支えた縁の下の力持ちでした。天佑丸は、その薩摩の一隻です。

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一隻に十二万八千ドルを払いました

天佑丸は万延元年(1860年)に十二万八千ドルで買われた船です。薩摩藩が幕末に船を買い集めていくなかでも早い時期の一隻で、この額は、文久三年に白鳳丸・青鷹丸・安行丸の三隻をまとめて買ったときの二十五万五千ドルのちょうど半分にあたります。一隻にそれだけ払ったことになります。

五代才助が乗っていました

文久三年七月二日(1863年8月15日)の未明、鹿児島湾の重富の脇元浦でイギリス艦隊に捕らえられたとき、この船には船奉行添役として五代才助、のちの五代友厚が乗っていました。曳いていったのはレースホースという砲艦です。捕らえられた三隻は桜島の小池沖へ運ばれ、正午に薩摩側の砲台が撃ち始めると、艦隊司令の命令で焼き払われました。五代は捕虜となり、青鷹丸の船長だった松木弘庵(寺島宗則)とともに、八月二十四日の夜に神奈川の岸へ上げられています。もっともイギリス側の同時代の記録は、捕らえた二人をどちらも青鷹丸から出したとしており、五代が天佑丸にいたとする日本側の記述とは食い違っています。

天祐丸とも書かれます

この船の名は「天佑丸」とも「天祐丸」とも書かれ、鹿児島県立図書館の回答や桐野作人氏の著書は天祐のほうを使っています。焼かれた三隻は、いずれも表記が一定しません。建造国も建造年もトン数も売り主も、わかっていません。

「蒸気内車」とは何を指すのでしょうか

伝わる要目では、機関を「蒸気内車」としています。幕末の船の資料によく出てくる書き方ですが、じつは当時の呼び分けは「内車」ではありません。

蒸気船の推進器は二通りありました。船の両脇に水車のような輪をつける外輪と、船尾の水中で回すスクリューです。当時の日本では前者を「外車」、後者を「暗車」と呼び分けました。暗車という名は、外から見える外輪に対して、水中に隠れて見えないからだと辞典は説明しています。福井藩が文久三年に買った黒竜丸は、史料に「木製暗車蒸気船」と記されています。

「内車」は、その暗車と同じくスクリューを指すものと読めますが、外輪を指す表として整理されている研究もあり、どちらとも決めかねました。要目の「内車」を見たときは、外輪かスクリューのどちらかである、というところまでにしておくのが安全です。ちなみにイギリス海軍が外輪船とスクリュー船を比べる実験をしたのは1845年で、それ以降スクリューの優位が広く知られるようになりました。天佑丸が買われた万延元年は、その十五年後にあたります。

名前の字が定まらないのは、焼かれたからでもあります

天佑丸と天祐丸、白鳳丸と白凰丸、青鷹丸と青鷹。焼かれた三隻はどれも表記が揺れます。原名のほうはイングランド、コンテスト、サー・ジョージ・グレイと分かっているのですが、日本での字が固まる前に船が無くなってしまったことが、揺れの一因でしょう。

誰が火をつけたかについても記録が分かれます。イギリス艦から乗り込んだ兵が奪って火を放ったとする記述と、薩摩側が自ら三隻に放火して沈めたとする記述の両方があり、鹿児島県立図書館の調査事例もこの点を未解決として扱っています。引き揚げの記録は確認されていませんが、蒸気機関だけは引き揚げられたとする記述があります。

沈んだ場所は錦江湾の桜島赤生原の付近とされ、近年になって民間による水中探査の計画が立てられています。焼かれてから百六十年あまり、船そのものはまだ湾の底にあることになります。

天佑丸を船の型と持ち主から読む

天佑丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「輸送船」。人や荷を運ぶ輸送船です(軍艦の格)。船体は鉄で造られていました。日本で鉄の船が造れるようになるのは明治以降で、鉄船はすべて外国から買われたものです。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この天佑丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、胡蝶丸(輸送船)、乾行丸(バーク級砲艦)、春日丸(仮装軍艦)、開聞丸(輸送船)、永平丸(輸送船)、雲行丸(輸送船)、安行丸(伊呂波丸と同一船)(輸送船)、三邦丸(蒸気内輪船)などがあります。

持ち主の薩摩藩の幕末をふり返ると、倒幕の中心。戊辰戦争では新政府軍の主力。天佑丸も、そうした藩の歩みのなかで使われた一隻です(藩ごとの船と幕末の立場)。

参考資料:Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

持ち主の薩摩藩—寺田屋騒動

島津久光の上洛 文久二年(1862)四月、島津久光は千人余りの兵を率いて鹿児島を発ち、京都へ上りました。藩主の父として、朝廷と幕府を結びつける政治改革を進めるためです。ところが、久光の上洛を倒幕の挙兵と思い込んだ薩摩の過激な藩士たちが、伏見の寺田屋に集まって決起しようとします。

寺田屋の悲劇 四月二十三日の夜、久光は藩士を寺田屋に送って説得させますが、話はまとまらず、薩摩藩士どうしの斬り合いとなりました。有馬新七ら九人が命を落とします(寺田屋騒動)。のちに龍馬が襲われた寺田屋事件の四年前、同じ宿で起きた出来事でした。

沈んだあと—機関だけが引き揚げられました

焼かれた三隻は桜島の沖に沈みました。しばらくのあいだマストが水面から突き出していたと伝えられています。

その後どうなったかを、鹿児島県立図書館が調べた記録が残っています。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載っている事例です。結論からいうと、船体を引き揚げたという記録は見つかりませんでした。見つかったのは機関についての記述だけで、英国側の錨を引き揚げたのと同じころ、桜島の沖に沈んだ薩摩藩の蒸気船三隻からも蒸気機関が引き揚げられた、とする資料があります。ただし「この頃」とあるだけで、年月までは分かりません。

この事例は質問が寄せられたまま未解決として残されています。質問した人は英国側が作った地図から沈没地点を桜島の赤生原のあたりと推測し、地元の漁協や潜水士協会にも尋ねましたが、引き揚げの話を聞いた人はいなかったそうです。

近年、民間の有志による捜索も行われています。令和七年二月に桜島沖でソナーと水中ドローンによる調査が実施され、人工物らしい影はとらえたものの、船体の発見には至っていません。大正三年の桜島の噴火で積もった火山灰の下に埋もれている可能性が指摘されています。公的機関による調査ではありませんので、結果は慎重に見ておく必要があります。

もうひとつ、資料が割れている点があります。多くの記録は「英国艦隊が焼いた」としていますが、薩摩側が自分で火を放って沈めたとする記述もあります。どちらが本当かは決着していません。

なお、この船のトン数を七百四十六トンとする研究があります。『明治元年公文類纂』所収の「諸藩艦船記」などをもとにした表によるもので、同じ表は購入を万延元年、船体を鉄製、機関を内車としています。本記事の要目とおおむね合いますが、一次史料そのものを確認したわけではありません。

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